96話 漢字変換の話



 原稿を手書きからワープロに変えたとき、友人たちからいくつかの経験談をきいた。
 「注意しないと、やたらに漢字の多い文章になってしまうよ」
 どういうワープロソフトを使うかにもよるが、変換の好きなソフトだと漢字が多くなるのはたしかだ。手書き時代には誰も書けなかった「顰蹙」とか「急遽」 などといった漢字や、書けることが自慢のように思われていた「颯爽」「憂鬱」などという漢字を目にする機会が急に増えたように思う。ただ、逆に漢字で書き たいのに変換できない字というのも少なくない。手書きならすぐ書けるのに、ワープロだとその漢字を探したり、手書き入力をしたりと、無駄な時間がかかるこ ともある。
 戦前に出版された文献からの引用だと、漢字は当然旧字体だから、正しく引用しようとすると、数行の引用でもとんでもない時間がかかる。手書きの方がよっぽど楽なのだ。
 「ワープロを使うようになると、漢字を忘れるよ。手書きができなくなる」
 これはてきめんだった。もともと私は、漢字を読む能力に関しては日本人の平均よりは少々上だったかもしれないが、書く能力は日本人の平均点を下回ってい ると思う。だから、原稿を書くときに辞書が手放せなかったのだ。ワープロを使うようになっていちいち辞書をひかなくてもいいというのはたしかに楽なのだ が、その結果ますます漢字が書けなくなった。それはもう、ひどいものだ。
 程度の差はあれ、ワープロ(パソコン)を日常的に使っている人は、漢字を正しく書けなくなっているのではないだろうか。無知無教養だと批判されている大 学生の場合は、小学生時代からノートをとる習慣があるから、誤字脱字があっても手書きには慣れているだろうが、入社10年というような若いサラリーマンだ と、どういう内容であれ手書きの文章を書くことはもうほとんどないだろう。
 とすると、もし筆記試験を受けるとなったら、ひらがなだらけの文章になるだろう。自分がもしその立場だったらと思うと冷や汗が出る。間違った漢字を書くのも恥だが、「まちがったかんじを書くにもはじだ」というように、ひらがなばかりの文章も恥ずかしい。
 ワープロが登場したとき、「これで、誤字ばかりの原稿は減りますね」と編集者にいうと、「漢字をしらないヤツが書いた原稿は、やっぱり誤字だらけだよ」 といっていた。つまり、変換ミスが多いということだ。私は職業柄注意はしているのだが、「旅行者」と「旅行社」のように、同じ音の語がしょちゅう出てくる と、変換ミスをそのままにしてしまうこともある。
 読者として、パソコン上の文章を読んでいる経験からいえば、しばしば目にする漢字変換ミスは「以前」と「依然」、「依頼」と「以来」、「以外」と「意 外」がワースト3だと思う。あまりにも多いので、これらは変換ミスではなく、それぞれの語の意味の違いがわからないのではないかと、疑いたくなる。「以 上」と「異常」の混同は少ないので、これらワースト3は意味の違いがわかっていない可能性もある。
 そんなことを考えていたときに、ふと疑問に思ったのは、漢字しかない中国語の場合だ。中国人は、漢字を忘れたからといってひらがなで書くわけにはいかな い。そういう場合、同じ音の漢字を当てることは知っているが、おびただしい数の漢字を忘れてしまった人が書く文章は、もはや判読不能だろう。日本語の場 合、ひらがなが多い文章は読みにくいが、文意は読み取れる。
 中国語とパソコンの関係に疑問を持っていたので、中国を専門とする日本人ジャーナリストに、漢字変換の話をきいた。
「このまえ、ニーハオを漢字で打ちたかったのですが、ニーという漢字がパソコン画面で出てこない。この程度の漢字も出てこないんですから、中国に関する原稿を書くのは大変じゃないですか」
「ええ、大変です。固有名詞には、日本ではほとんど使わない漢字も少なくないですし、簡略体はないから作字するしかないんだけど、そうするとメールで送る と文字化けする。だから、原稿はファックスか郵送になってしまうんです。校正も注意してちゃんとやらないといけないし、大変ですよ」
 アジア文庫でも数が少ないとはいえ、中国を扱った本があって、この点では苦労している。その代表格は、訒小平。わがパソコンはおりこうさんだから、この 「訒」が一発で変換されるが、訒小平存命中には、この姓は手書きにするしかなかった。いまの日本で、漢字変換にもっとも苦労させられるのは、「草なぎ剛」 だろう。
 
 ☆パソコンと中国語漢字変換の話は、アジア文庫店主が当事者として苦労しているので、大家さんの内山書店の事情も取材して、詳しく報告してくれる予定である。乞うご期待。