94話 インドと古本屋


 インドではいくつものカルチャーショックを受けたが、物の値段が決まっていないという習慣には当初とまどった。値段が決まっていないというのは、定価というものがなく、正札がついていないということだ。
 たとえば、布を買おうとする。
「これ、いくら?」と聞くと、
「あんたの値段は?」とか「いくら払うか?」と聞いてくる。値段を聞いて、すぐさま値段を伝える文化ではないのだ。だから、交渉に時間がかかる。インド人 に50ルピーで売ったのと同じ商品を500ルピーで買わされたからといって、「インド人は汚い」などと文句をいってはいけない。500ルピーの価値がある と思ったから買ったのであり、それがもし粗悪品だと気がつかなかったとしたら、不注意で不勉強で交渉力がない消費者に責任があるという考え方だ。
 ようするに。これは骨董品の価値と同じだ。日本の骨董品店で1枚2万円の値段がついている皿が気に入って買ったら、100円ショップで売っている皿と同 じものだったとする。これはひどい話か。その皿に2万円の価値ありと判断したのは自分なのだから、文句があるなら自分の不勉強に対して言えばいい。あるい は、その皿が100円ショップのものではなく、明治時代のもので、ほかの店では2000円程度で売っているものだとしても、2万円の価値ありと判断したの は自分なのだから、全責任は自分にある。高いと思えば、店主がどんなに勧めても買わなければいいのだから。2万円なら支払ってもいいと思ったなら、それで いいのだ。
 インドの商売は、近代的な消費者保護の考え方には反しているものだろうが、消費者も賢くならねばいけないという意味では、けっして悪い習慣だとは思えな い。これが薬品などではまずいと思うが、野菜や布などなら、消費者も勉強して、自分の判断基準を持てばいいのだ。化学繊維と絹の区別もつかないなら、絹を 買う資格はないと思えばいい。
 先日、インターネットで古本をチェックしていて、インドを思い出した。
 ある本を検索したら、最低500円、最高2500円の値段がついていた。「ある本」と書いたが、書名をとくに隠しているわけではない。たんに、思い出せ ないだけだ。その本は、十数年前に出た本で、なかなかおもしろかった。たしか、1500円くらいの定価だったと思う。それが、2500円の値段がついてい るということは、絶版になったのだろうか。ときどき新刊書店でも見かける本だが、さてと、と版元や大書店の情報を調べてみると、まだ販売していることがわ かった。いまも1500円の定価で売っている本に、なぜ2500円の値段をつけたのか。その本の出品者は書店ではなく個人で、おそらくその本が大好きだっ たのだろう。そして、もう10年以上前に出た本なら、たぶん絶版になっているに違いないと思い込んだのだろう。その人の価値判断では、2500円は正当だ と思ったのだ、きっと。
 古本というのも、値段があってないようなものだ。先日、高田馬場のビックボックスの古本市で『全東洋街道』(藤原新也集英社、1981年)を見つけ た。この本は、神田の古書店のカタログで1万円の値段がついていてびっくりした。発売当時の定価は2200円だ。高田馬場でいくらで売っていたかという と、750円。安いが、すでに持っている本を買ってもしょうがないから、買わなかった。帰宅して、ネット古書店でこの『全東洋街道』をチェックしたら、そ こでも1万円だったから、相場が暴落したわけではないらしい。私は売るために本を買うわけではないので、読まない本は買わない。だから、「買っておけばよ かった」などと後悔はしない。
 古本屋の値段というのは、そのくらいの違いはあるものだ。神田を歩いていても、版元が倒産したせいで、その出版社の本を定価の2割ほどで平積みしている 店もあれば、きちんと棚にさして定価の3割引きで売っている店もある。いくらで買うかは、買い手ての判断で決めればいいことで、つまらない本はいくら安く ても買わないし、どうしても欲しいという本なら、見つけてすぐ買うのも、間違った行動とはいえない。
 定価3000円の本を1500円で売るというなら、半額だとわかるが、戦前に出版された本だと定価の何割引きかなどまったく意味がない。社史や研究所の 刊行物など、そもそも定価などついていない本なら、店がつけた値段を安いか高いか判断するのは、自分の価値判断しかない。そういう値付けの行為を、私はど うやら新刊書でもやっているらしい。本屋で気になる本を棚から取り出して、内容をチェックして、そのあと値段を見る前に、頭の中で「これなら、1600円 かな」などと値段をつけている。つまり、その値段なら買ってもいいかなという基準価格だ。この基準から大きく外れていなければ、レジに進むことになる。
 ただし、私はまだ修業が足りないから、安さについ誘われて手を出してしまうことがある。8400円の本が2000円なら、つい手が出てしまう。それで、だいたい読まない。あとになって、どうしても読みたい2000円の本を買えばよかったと、後悔するのである。