99話 大人の字



 テレビ番組では、フリップという厚紙をよく使う。ニュース番組では、ニュースの内容を図解したものを厚紙に書いて示す。クイズ番組では、出演者がフリップに答えを書く。討論番組でも、出席者にまずそれぞれの意見をかいてもらい、それから討論を始めることもある。
 そういうシーンを見ていると、字が気になってくる。タレントが書く場合はひらがなやカタカナが多い。私だって漢字はあまり書けないのだから、それを非難 できないし、間違った漢字のせいで答えも間違ってしまうなら、初めからひらがなで書いたほうがいいと考えるのは、きわめて普通のことだろう。
 だから、私が気になるのはひらがなやカタカナが多いということではなく、字の形である。
 私が子供だったころ、子供は子供の字を書き、大人は大人の字を書いていた。大人の字としてまず思い出すのは、ちょっと(場合によっては「かなり」)くず した字だった。略字もあったし、漢字も多かったから子供にはけっして読みやすい字ではなかったが、はっきりと「大人の字」だとわかる姿だった。1960年 代の教師の文字を思い浮かべると、国語の教師は習字のような字を書いていた。それ以外の教師は、当時全盛だったガリ板印刷に向いた角ばった文字を書いてい た。活字のように読みやすい文字だった。当然くずしていない文字だったが、それもまた当時の大人の文字だった。
 子供の字というのは、どんなにじょうずでも楷書で、きっちりとした字が書けなかった私は(今もだが)、バランスが崩れたひどくヘタな字しか書けない。中 学生くらいになると、大人ぶった字を書き始める者も出てきた。概して、男よりも女のほうが字形に強い関心を抱くように思う。のちの丸文字やヘタウマ文字な どを考えてみれば、女のほうが文字の形により強い関心を抱くという私の説は説得力があるだろう。
 さて、フリップの話だ。中高年の学者や評論家などが出演する討論番組に登場したフリップの文字を見て、私は「ああ・・・」とため息をついた。大人の文字 を書いている人がひとりもいないのだ。多くは、私のように字のヘタな者が、時間をかけてていねいに書いたような字だった。ひとことでいえば、稚拙である。 子供っぽいのである。
 考えてみれば当然で、年齢だけでいえば立派な中年である私も大人の字が書けないのだから、同世代の学者や評論家たちも子供の字しか書けなくても不思議ではない。
  私よりもちょっと年長であるアジア文庫店主の字は、大人の字だ。年に何度か手紙をもらうが、堂々たる大人の手紙である。出版社めこんの社長の字も、昔の教師を思い出させる文字だ。
 私より若い人で、大人の文字を書く人は思い浮かばない。端正な字もあれば、判読に苦労する悪筆もあるが、大人の字を書く人は友人知人のなかにはいない。
 味のある字ということでいえば、旅行人編集長・蔵前仁一氏がピカイチである。彼と手紙のやり取りを始めたころは、私はまだワープロ専用機さえ持っていな かったから、当然手書きの手紙だった。心遣いの人蔵前氏は、手書きの手紙にパソコンで打ってプリントアウトした返事を送るような無作法なことはせず、手書 きの手紙をくれた。この文字がいいのだ、漫画家やイラストレーターに多い書体だが、味があっていい。だから、彼の手紙は全部保存してある。
 のちに、旅行人から『アフリカの満月』を出すことになったとき、担当編集者であると同時に装丁者でもある蔵前さんが、著者の私にこう言った。
「装丁について、なにか希望があれば、なんでもおっしゃってください。予算の限界というのはありますが、予算内であれば、できることはなんでもします。著者の意向を無視して、勝手な装丁をすることはありませんから」
 ありがたいお言葉なので、いくつかのアイデアを話し、たったひとつの希望を伝えた。
「カバーの書名は、活字ではなく、蔵前さんの手描き文字にしてください」
 出来上がった本を見ればわかるように、著者のささやかな希望は無視され、活字の書名になっていた。おそらく、「そんな希望を口にするのは、十年早い!」 ということなのだろうから、今後精進して立派な本を書かねばならないのだが、そのハードルはとてつもなく高そうだ。