998話 大阪散歩 2017年春 第37回

 賀名生へ その4


 その後、たえちゃんとは長い間会うことはなかった。手紙はときどきやり取りしていた。たえちゃんは大学卒業後に結婚して兵庫県に移り、養護学校の教師となったというくらいのことは知っていた。彼女は育児と仕事で大忙しの日々を送り、私は「旅、ときどき料理修行」ののんびり生活を続け、いつの間にかライターになっていた。かつての、村立小学校の児童は、ひとりは立派な先生になり、ひとりはヤクザな旅人になっていた。
 久しぶりに会ったのは、1996年だ。メモをしていたわけではなく、日記を書いていたわけでもない。インターネットで調べてわかったのだ。バスケットボールをやっている長男肇(はじめ)クンと次男亘(わたる)クンが、東京に試合を見に来たのだ。東京ドームのNBAのゲームだ。その引率者として、たえちゃんが東京に来た。子供たちが東京ドームで観戦している間、大人たちは江戸東京博物館に行った。私の感覚では、たえちゃんは「ちょっと前に京都で会った大学生」のままなのだが、すでに三児の「おかあちゃん」になっていた。夫はすでに亡くなっていた。のちに、うつ病による自殺だったと知る。
 次に会ったのは、愛媛の帰りだった。2000年前後だったと思う。松山で講演の仕事があり、帰路は遊んで帰ろうと思った。交通費は現金でもらい、講師謝礼が取っ払い(とっぱらい。当日、現金払いのこと)だったので、そのカネで旅をしながら帰宅しようと考えた。松山から香川に行って、さんざんうどんを食べ、連絡船で宇野(岡山県玉野市)に出た。宇野線で岡山に出たが、山陽線に乗るのはおもしろくなさそうで、東岡山赤穂線に乗り換えて、兵庫県相生。そして、山陽線で姫路に出た。名所旧跡に興味のない私だが、城には多少の関心があるので、姫路城を見物した。姫路から加古川に出て、加古川線加古川市の北の小野市に行った。たえちゃん一家はそこに住んでいた。孫の面倒をみるために「竹原のおばちゃん」が同居していた。宇治に住んでいるたえちゃんの兄のハチローさんもわざわざ小野まで来ていた。竹原家の3人と私が揃うのは、賀名生を離れた1961年3月以来だった。
 バスケットボール少年だった次男が東京の大学に行くことになり、その息子の卒業を待って彼女は再婚した。次男は東京で就職し、結婚した。定年退職して自由な時間ができて、東京の息子に次々に子供ができ、おばあちゃんになったたえちゃんは東京に来ることが多くなった。来るときは、いつも電話でだいたいのスケジュールを伝え、「その間で、会える日はある?」と聞き、ヒマなライターは日本にいる限り会って、いっしょに東京散歩をした。
 2015年も、いつものように電話があり、いつものように近況と東京訪問の計画を話した後、「実はね・・・」と、口調を変えて言った。
 「実は、重篤な病気が見つかってしまって・・・。最近、胃のあたりがなんだか変で、かかりつけの医者に行ったら、『薬を飲みつつ様子を見てみましょう』ということで、薬を飲んでいたんだけど、一向に改善しないんで大病院で見てもらったら、スキルス胃がんのステージ4。もう、どうしようもないらしい。開腹手術をしたんだけど、胃を切除しても意味がない状況だから、すぐにおなかを閉じたの」
 私は何かをしゃべったが、口数だけは多いが、内容のない話だっただろう。1歳からの付き合いがある親友には、もうそれほど長くない時間しか残されていないらしい。この「アジア雑語林」を読んでいると言っていたから、ガンで死んだ友人知人の話は書けなくなった。
 東京に行ったら、根津神社に行きたいというので、案内した。2015年の秋だった。病人には見えなかった。何か所も東京散歩を楽しんだ。いつもの東京散歩だった。
2016年の春も、「また東京に行く」と電話があり、「今なら、根津神社のつつじがきれいだと思うから、まずはまた根津神社から・・・」というリクエストで上野から根津神社まで歩き、口調と歩調に病人らしきものは何も感じなかったので、病人と散歩しているという事実を忘れてだいぶ歩かせてしまった。根津神社のつつじは、ちょうど見ごろだった。
 ちょっと暑い日だったので、根津神社を出てしばらく歩いたあと、そば屋でせいろを食べた。根津神社から不忍池を回っていると、「ああ、この人は病人だった」と思い出し、ベンチに腰掛けて休憩し、とりとめのない雑談をした。高校時代はバスケット部にいたというのも、初めて知った。左利きだというのも、初めて知った。ペンと箸は無理やり右利きに修正されたから、気がつかなかったのだ。
 教師をとりまく環境の変化という話もした。1970年代は、「出世なんか考えない。校長になんかなりたくない。クラブ顧問もやらない」と宣言して、毎年夏休みに長期旅行をしている教師たちに旅先でときどき会ったんだよねえと言うと、「それは昔の話ね」と苦笑した。今は研修会とその報告書などの作成に追われて、授業とは直接関係のない雑用に追われて、教師に余裕がなくなったといったという話や、障害児教育の話からモンゴル旅行の話など、さまざまな話をした。
 夕方、アメ横に行き、中国人がやっている屋台に腰を下ろした。雰囲気は台湾だった。同じテーブルで向かい合った夫婦と世間話をした。料理はあまりうまくなかったから、「まあ、雰囲気だけだね」と笑った。
 2016年秋、私がイベリア半島の旅から帰ってきたら、「娘といっしょに東京に行くことになった」という連絡があり、次男の自宅近くにある築地市場などに行ったのだが、病人という感じはしなかった。いつもの、たえちゃんだった。