98話 事実と真実


 私はウソがつけない。正直者だからか、それとも小心者だからかわからないが、ウソがつけない。もしウソをついたら、顔の表情が変わり、オドオドとし始めるから、ウソをついているとすぐわかってしまう。
 だから、小説など書けないのだ。そもそも小説をほとんど読まないから、小説の書き方も知らない。作り話の作成技術がわからないのである。
 そういう私だから、いままで書いてきたものはすべて事実であって、作り話はひとつもない。ただ、それが真実なのかというと、自分でもかなり疑問なのだ。
 ある出来事を原稿にしたとする。私が見たり聞いたりしたことを書いたのであって、見もしないことを書いたわけではない。しかし、私の見間違いや聞き間違 いということもありえる。過去の旅の話を書けば、記憶違いということだってありえる。私が事実だと認識したことを「事実」として書いたのだが、だからと いってそれが「真実」である保障はない。
 このような認識は、おそらく多くのジャーナリストたちと同じだろうし、ノンフィクション作家たちもほとんど私と同意見だろう。しかし、この「事実」の部分を大きく逸脱した認識をしている書き手も何人かいる。その代表格が沢木耕太郎だ。
 沢木の文章は、その第一作『若き実力者たち』(1973年)が出る以前から、雑誌で読んでいた。以後何年間かは、沢木の本がでればすぐに買って読んでい たのだが、ある表現に気がついてから、まったく読まなくなった。それは、故人の密室での行動が、あたかも覗いたかのように描写されていたからだ。
 沢木は、ラジオ番組で「事実」についてこう語っていた。
 事実というのは、誰も「それは事実ではない」と否定できないことすべてが、事実なんです。事実として書いていいのです。例えば、ペリーの乗った黒船が日 本に来たのが1513年だと書いてはいけない。歴史的事実ではないからです。しかし、例えば坂本龍馬がひとりでいるときに、どんな動きをし、どんなことを 考えたかは自由に書いてもいい。だって、「そんな行動はしなかった」と誰も否定できないでしょ。
 沢木が坂本龍馬を例に挙げたかどうか記憶が定かではないが、誰を例に挙げても同じことだ。『深夜特急』は自分の旅を書いているのだから、沢木の法則に従 えば、交通などごくわずかなこと以外、なんでも自由に書いていいというわけだ。彼の行動を、「あんた、そんなことをしなかったでしょ」と否定できる人物は ほとんどいない。沢木にとっては、自分の行動をそのまま書くというのは重要なことではなく、なにかの目的のためには、読者には事実と感じさせる虚構を盛り 込んでも、「ノンフィクション」として成立すると考えているようだ。
 沢木のこの文章作法を否定する気はない。それぞれの作家にそれぞれのスタイルがあるわけで、沢木の文章には虚構が多いと認識していればいい。ただし、肌 に合うかどうかといえば、合わない。だから、彼の本を読まなくなったのだ。『深夜特急』にしても、原稿を書かなくてはいけなくなって読んだのであって、そ ういう機会でもなければたぶん一生読まないで過ごしただろう。
 旅行記の感想をインターネットで読むと、「この人が書くことにウソが多い」といった批判がときどき見受けるが、これにはいくつもの理由がある。
・ウソというのが、「間違いがある」という意味で批判している場合。例えば、タイの首都はアユタヤだ、と書いているような場合だ。
・ 作者の文章は作り事だろうと疑っている場合。これには、作者が本当に作っている場合と、事実を書いているのだが、その読者には事実とは思えない場合があ る。例えばハワイしか知らない人にとって、インド旅行で出会う事実を書くと、みんな作り話に思えるかもしれない。