さて、日本にも問題がある。ネット上の意見を読んでみると、日本におけるローマ字の問題がいろいろ論じられている。ヘボン式がどうだ、訓令式はどうだという意見があり、私もそれなりに意見はあるが、ここでは人名や地名の表記だけを考えたい。
その1 飾りのローマ字はいらない。
雑誌を読んでいると、筆者の名前にローマ字が添えてある例が少なくない。そして、たいてい名・氏の順になっていることが多い。私が原稿を書いた場合は、 校正するときに、氏・名の順にするか、それともローマ字の氏名を削除するか、どちらかを要求する。どう読むのかわからない氏名に、読み方が書いてあるのは いいのだが、なにもローマ字にすることはない。氏名にふりがなをふってもいいし、原稿の末尾に、例えば、(まえかわ・けんいち ライター)というように、 名前の読み方と職業か肩書きを添えてもいい。日本語の雑誌に、日本人の名前をローマ字でも表記する必要はまったくない。ローマ字を飾りに使うのは、西洋コ ンプレックスの哀れな表現だ。
その2 発音に近い表記にせよ
KOBEがいやだ。OSAKAがいやだ。「こべ」ってなんだ。「おさか」ってなんだよ。神戸は「こうべ」であり、大阪は「おおさか」じゃないか。だか ら、KOUBEであり、OOSAKAでなければ変だ。しかし、駅名も、そしておそらくそれぞれの自治体も、KOBE、OSAKAの表記を採用しているはず だ。神戸市民は「こべ」でいいのか。アメリカ人が作ったヘボン式ローマ字は長母音を認めず、日本人はそれをありがたく採用しているから、こんな不具合はで てくる。問題なのは、こういう表記を変だと思わない日本人だ。
アジア文庫の社長は大野さんというが、彼の名をローマ字で書くと、ONOになる。小野になるのだ。これが日本のローマ字政策である。だから、大野さんのパスポートには、ONOと表記されている。
これはさすがに批判があったらしく、パスポートの申請には2000年から長母音の表記も認められることになった。しかし、これがまた、問題ありなのだ。 長母音で表記するには、「氏名の長母音表記申出書」という書類を提出するところはいかにもお役所仕事だが、そういう書類を提出して、晴れて認められるの が、OONOではなくOHNOなのである。外国人はアメリカ人だと思い込んでいる役人のやりそうなことだ。基本的には、大野のOONOだけでなく、河野の KOUNOも認めないから、河野氏はKONOと表記しなければいけない。特例を受け入れれば、KOHNOは可能になった。とすると、大井氏はOIかOHI になる。おい氏か、おひ氏になってしまうわけだ。そんな不都合な表記をせずに、OOIとすれば、何の問題もない。そんな簡単なことが、エリート官僚にはわ からないらしい。
私の名前も問題がある。健一は、ヘボン式であれ訓令式であれ、従来の表記では、KENICHIかKENITIになる。このローマ字をそのまま読めば、 「けにち」である。実際、外国では「ケニチ」と呼ばれることが多い。だから、できるならKENーICHIと表記したのだが、パスポート上ではできない(名 刺での表記なら可能だが)。
ヘボン式とその改変形を採用している人は、アメリカ人に正しく読んでもらえることだけを考えている。しかし、在日外国人は中国人、韓国人、ブラジル人な どが多い。彼らが日本で目にする地名・駅名が、アメリカ人向けになっているのは、どう考えても変だろう。ローマ字を論じているサイトに、「英語ではこう発 音するから、ローマ字でこう表記すれば無理なく読んでもらえる」などと書いてあるものがあったが、その人にとって英語とはアメリカ英語でしかない。もし、 石井さんがアメリカ人に日本人の発音に近い形で自分の名前を呼んでもらいたかったら、E−SHE−E か、 E−C−E とでも表記するしかない。
どういう表記をしても、すべての外国人が日本語を日本人のように発音できるわけではない。それぞれの母語が干渉する。だから、まず、日本人が納得できる規則的な表記にすべきだ。つまらないHを入れるもんじゃない。
※アジア文庫・ONOの蛇足
私が初めてパスポートをとったのは1979年だった(と思う)。ひょんなことで、香港ツアーのくじに当たった。喫茶店組合の共同企画だった。当時勤めて いた職場の昼休みによく通っていたジャズ喫茶で抽選券をもらった。そのことも忘れていたのだが、一緒に行った同僚が、当選番号を見てきたらしく、血相を変 えて、「俺のが一番違いで外れていた。お前の何番だ」ということで、定期入れに挟んだままになっていた抽選券を見てみると、見事当選!
でも何だかあまり嬉しくなかった。私は出不精、筆不精の怠け者で、できれば旅はしたくない。団体旅行となるとさらに憂鬱になる。行けばそれなりに楽しい のだろうが、行くまでの準備や、手続きを考えると面倒になってしまう。「お前に譲ろうか」と言おうとしたが、ヤツは興奮して、脱兎のごとく駆け出し、瞬く 間に職場に「香港旅行当選のメデタイ大野」の噂を広めてしまった。上司からも「おめでとう」などと言われ、引くに引けなくなってしまった。
ただ、この時はツアー旅行だったので、すべてあなた任せの観光旅行、パスポートの表記がどうなっていたのかまるで覚えていない。
二度目の時は良く覚えている。1989年だった(と思う)。当時、バンコクにいた前川さんに誘われて、仕入れ方々、タイに行った。この時は、さすがの私 もいやいやではなかった。なにせ、前川さんのガイドでバンコクの書店めぐりができるのだ。私はいそいそと手続きを済ませた。格安航空券の手配、パスポート の申請…で、引っかかった。私は名前をOHNOで申請した。ところが、大野はONOでしか受け付けられないと言う。なんで?私は大野であって、小野ではな い。ずいぶん理不尽で、融通の利かないことになっているのだなと、その時初めて知った。やむなく「ONO」で申請したものの。割り切れない思いは残った。 パスポートが「ONO」で名刺が「OHNO」では、いらぬ誤解を生むのではないかと、名刺も「ONO」に改めた。そして、現地で私は、「ミスターオノ」と 呼ばれることになった。さらに、名前も前川さん同様、SHINICHIは、シニチと呼ばれた。
かくて、私は海外に行くと、「オノシニチ」になってしまった。
現在、長母音の表記も認められることになったのは、私が覚えたような違和感を持つ人が少なからずいたといういうことだろう。現地に溶け込んで生活や、仕 事をしている人にとっては、もっと切実な問題も発生していたのではなかろうか。まったく、お役所というところは…、である。