114話 ふたたび、ニッポンが嫌いだ


  チョウチョウを旧仮名遣いでは「てふてふ」と書く。これをそのままローマ字で「TEHUTEHU」と書いて、外国人にチョウチョウと読ませるには無理があ る。非ローマ字言語をローマ字で表記するということは、その言語が使用する文字を読めない人に、どういう音なのかを伝えるためだ。もちろん、正確になど伝 えられないのだが、だいたいの音を伝える意義はある。私の常識ではそうなるのだが、世間の常識はそうなっていない。
 タイ語のローマ字表記は、政府が定めた規則というのはどうやらないようだが、タイの英語新聞の表記はそうひどいものではない(もっとも、記者によって表記が違い、それが統一されないところがタイだが)。
 タイの場合困るのは、サンスクリットなどインド起源の語を、発音など考えずに元の綴りのままタイ文字に置き換え、しかし発音はタイ式になるから、綴りと 音に違いが出る。そういうタイ語をローマ字表記する場合、音を移してくれればいいのだが綴りをそのままローマ字化してしまう。一種のてふてふ状況だ。
 具体的に例をあげれば、タイのビールにSINGHAというのがある。語源的にはシンガポールと同じく、「獅子」という意味だ。タイ文字では、HAの部分 に「この語は発音しない」ことを意味する黙字記号がついている。だから、この語の発音はSINGだけを読むから、「シン」あるいは「シング」となる。それ なら、初めからSINGとローマ字表記すればいいものを、元の綴りを無視できず、変なローマ字表記になっている。言語の音ではなく、文字に縛られているイ ンテリが犯した犯罪だ。ローマ字表記が、タイ文字を読めない人向けのものだということがわかっていない。
 こうした例は、韓国でも多い。韓国もまた、ローマ字化はハングルの綴りをそのままローマ字に置き換えることを重視した結果、ローマ字の綴りと発音がずれてしまった。
 日本人にもっともなじみのある例では、自動車も生産している現代財閥の「現代」だろう。 漢字で現代と書くこの語は、ヒョンデと読む。ところが、ローマ 字ではHYUNDAIになる。どうしてこういうローマ字になるのか詳しく説明するとややこしいので、語尾の母音についてだけ説明しておく。語尾の母音はA とIの中間の音で、ローマ字では表記できない。そこで、AIと母音をふたつ重ねることで、「その中間の音ですよ」という記号にしている。だから、ヒャンダ イではないのだが、そのローマ字で「ヒョンデと読んで」と要求されても、外国人は困る。このローマ字なら、日本ではヒュンダイと読むのが普通だから、この 会社は日本では「ヒュンダイ」を名乗っている。つまり、音よりも文字を重視したのである。ハングルの綴りを無視して、「HYONDE」とはけっして表記で きなかったのだ。
 韓国人の名前も困る。名前のローマ字表記は個人の自由になっているから、同じ姓でも表記はバラバラになる。李という姓は、韓国では「イ」、北朝鮮では 「リ」と発音する。韓国では頭のL音が落ちるのだ。ところが、韓国人のローマ字表記では、LEE、LI、YI、RI などいくつもある。発音しないならL もRも表記しなければいいのに、やはり綴りが重要なのだ(LとRの区別は明確ではないらしい)。
 しかし、だ。いくつもの綴りがあっても、LEEと表記する人が多い。アメリカ風でかっこいいと思っているからだろう。こう表記すれば、アメリカ人に限ら ず「リー」と呼ぶ。「イ」と呼ぶことなど不可能だ。だが、もし日本人が「リーさん」と呼んだら、さてどうだろう。「イです」と訂正しそうな気がする。
 中国語の場合は、同音異義語が多いので、ローマ字から元の漢字を連想できるようなローマ字表記というのは無理なので、音を移すことを考えている。ここで 問題になるのは、中国語を知らないと、中国語のローマ字表記を理解できないことだ。北京はBEIJINGと表記しているが、だからといって中国語で「ベイ ジング」あるいは「ベイジン」と発音するわけではない。中国語のローマ字表記は一種の発音記号だから、その記号を読む訓練ができていないと、実際の音がわ からない。これを説明すると、またややこしいのだが、一点だけ説明しておくと、有気音と無気音の区別がある。無理やりカタカナで表記すると、「は」と 「はっ」の別とでもいっておこうか。つまり、その音を発音するとき、空気が口から出るか出ないかという区別があるのだ。Pの音の無気音をBで表記し、有気 音をPで表記している。だから、北京の「北」をBEIと表記しているのは、PEIの無気音ですよという意味だ。だから、カタカナ表記ならベイではなく、ペ イになる。
 タイ語の場合、有気音と無気音の区別は、Hを入れることで表している。国名のTHAIがそれで、TAIでは別の語になる。このほうがわかりやすい。もちろん、カタカナ表記なら同じことだ。
 オリンピックを見ていて気になったのは、英語圏以外の人もローマ字表記だ。フランス語もドイツ語もスペイン語も、基本的にはローマ字表記の言語だが、英 語にはない文字がある(あるいは、英語では使わない記号がある)。そういう字がある人名を、オリンピックでは平易なローマ字表記にしなければいけない。