1049話 イタリアの散歩者 第5話

 ケ日記


 到着した空港で、その国の言語を覚えるということがある。ゲートからイミグレーションに向かい、そのあと表示に注目して歩く。スペインの場合、”Solida”という文字の下に、Exit”とあるので、スペイン語で「出口」はそういうのだとすぐにわかる。フランス語がわかる人なら出口を表す”Sortie”という語の連想で、Solidaもすぐに覚えられるだろう。
 イタリア語とスペイン語の違いに気がついて、その驚きをイタリア人に話したら、「そうなんだよ、そのことは外国人によく言われるんだよ」という。私ひとりの印象ではなかったのだ。イタリア語で出口は、”Uscita”(ウッシータ)という奇妙な綴りのことだ。これでは、スペイン語やフランス語の知識がある人でも頭をかかえてしまう。
 私が思っていたほど、イタリア語はスペイン語と近くないらしいが、それでも文字をぐっとにらめば、意味がわかることは少なくない。
 例えば食堂でメニューを見ていて、”polpo”とあれば、たぶんスペイン語の”pulpo”(タコ)だろうといった連想は働く。ポルトガル語なら、polvoだ。
 数字はこのくらい違う、あるいは似ているといえる。(  )内はスペイン語
0zero(cero)、1uno(uno)、2due(dos)、3tre(tres)、4quttro(cuatro)、5cinque(cinco)、6sei(seis)、7sette(siete)、8otto(ocho)、9nove(nueve)、10dieci(diez)
 旅行中に使うカネは、ホテル代を別にすれば、たいてい10ユーロ以下なので、10までの数字を覚えていればなんとかなるし、そのくらいなら、イタリア人も英語で言えると思うかもしれないが、移民が多いので、片言イタリア語はできても、英語はまったくできない人も多いのだ。
 イタリア語やスペイン語は、発音が楽なので助かる。地図やガイドブックに載っている地名を、生まれて初めて口にしても、バスや鉄道の切符がちゃんと買えるというのは、タイ語世界ではほとんどあり得ないことだ。中国語でもあり得ない。まず、読めない。ローマ字表記がしてあっても、バンコクや北京のようによく知られた地名でない限り、まず通じない。イタリアでは簡単に通じるが、文字の読み方と発音の仕方の基礎は押さえておかなければいけない。地名を口にして聞き返されたのは、Veneziaだ。おそらく、聞き返された理由は、私がBenechiaに近い日本語発音だったからだろう。ベネチアの話を始めたら、話し相手のイタリア人は顔をしかめ、「それ、どこ?」と数秒考えて、「Oh Venice!」と言われてしまった。地名くらいはイタリア語で言おうとしたのだが・・・。きちんとV音を出すのはもちろん、「ツィア」を強く発音するのがコツらしい。注意するのはそのくらいのことだから、実にやさしい。
 イタリア語はそのままローマ字読みして通じることが多いが、例外をいくつか紹介しておく。
 giはギではなく、ジ。だから、Giapponeはギアポネではなく、ジャポーネ、日本である。
 ciはシでなく、チ。cittaはシッタではなく、チッタ。英語ならcity。
 gliはグリではなく、リ。駅でよく見る表示biglietto(切符)はビリエット。
 chiも読み方注意だ。街で「TABACCHI」という看板をよく見る。Tabacco(タバコ)の複数形で、タバコ屋の意味で使われるが、イタリアのタバコ屋は雑貨店であり、バスや地下鉄の切符を売っている店でもある。発音はタバッチではなく、タバッキ。イタリアの画家Chiricoはチリコではなく、キリコ。
 カキクケコの音をイタリア語で書くと、ca,chi,cu,che,co、ガギグゲゴは、ga,ghi,gu,ghe,goと綴る。
 というわけで、私の名前Kenichiは、イタリア人が発音するとケニッキになり、卦日記あるいは毛日記といった日本語の発音とほぼ同じになる。となれば、天下のクラマエ師の名、Jinichiはどうなる。Jはスペイン語ならJoseホセのようにHに近い音になるのだが、イタリア語では外来語にしか使わないが、発音するとなれば、ローマ字表記ならJかYの音になる。だから、Jinichiは字日記か痔日記か胃日記だろう。
 このアジア雑語林では、これからもイタリア語がでてくるが、アクセント記号は省略している。例えば、コーヒーは caffèのようにeの上にアクセント記号がつくのが正しいイタリア語だが、街の看板などでは省略しているものも少なくない。記号がなくても支障がなければ省略するという流れらしい。知り合いの学者たちに聞くと、フランス語でもドイツ語でも、同じような状況らしい。


 マテーラ駅を降りたら、その夜のコンサートの広告をしているトラックがあった。”VINCERÒ"(ビンチェロ)という文字が見える。オペラファンならすぐにわかるのだが、オペラ嫌いの私は、調べてやっとわかった。プッチーニのオペラ「トゥーランドット」のなかのアリア"Nessum dorma"(だれも寝てはならぬ)をアレンジしたものだ。Oにアクセント記号がついているが、なければ時計なのどブランド名になってしまう。イタリア語のCDなら、このように記号付きだが
https://www.amazon.co.jp/Vincero-Luciano-Pavarotti/dp/B00005S3BU/ref=sr_1_9?s=music&ie=UTF8&qid=1511142636&sr=1-9&keywords=vincero
 英語や日本語のものはアクセント記号を省略している。日本版を聞くと、なぜか"viencero"と発音している。
 それはともかく、かのパバロッティのコンサートでも、当日にまだ広告をしている
ということは、即日完売にはならないということか。