122話 アフリカと白石顕二さん


 2005年7月1日の新聞に、知り合いの死亡記事が出ていた。アフリカの映画や音楽などを日本に紹介してきた白石顕二さんが、6月22日午前11時20分に急性心筋梗塞武蔵野市の病院でなくなったという記事だった。59歳、やりたいことがまだまだあったにちがいない。
 白石さんとはもう十数年会っていないが、かつてはちょくちょく会って遊んでいた。
 初めて会ったのは、恵比寿のピガピガだったと思う。ドラマーの石川晶さんのアフリカ音楽バーだった。その店の経営は、もしかするとご子息だったかもしれ ないが、詳しいことは知らない。とにかく、1980年代の前半、多分83年だったと思う。この年、私は『東アフリカ』というガイドブックを出したばかり で、頭も体もアフリカに染まっていた。
 本を書くためのアフリカ情報の収集には、アフリカ旅行の専門旅行社「道祖神」がおおいに助けてくれたのだが、恵比寿のその店を紹介してくれたのも、もし かすると道祖神のスタッフだったかもしれない。もう20年以上前のことなので、あまり覚えていないのだが、その夜は、たぶんピガピガの開店パーティーだっ たのではないかと思う。
 東アフリカのバンド演奏があるパーティーで、白石さんと会った。道祖神のスタッフが、店内で踊っている大柄の男を「『ザンジバル娘子軍』を書いた白石 さんです」と教えてくれたのではないかと思うのだが、これまた記憶がはっきりしない。はっきりと覚えているのは、その数年間、つまりアフリカ旅行の前後数 年間に、アフリカ関係書を集中的に読んでいて、名作と呼んでいい作品に何冊か出会っていて、その一冊が『ザンジバル娘子軍』だったということだ。ほか に、 『アフリカ33景』(伊藤正孝)や『海のラクダ』(門田修)などがそのころ読んだ名作リストとして頭にあった。西江雅之の『花のある遠景』などは 70年代にすでに読んでいたから、このリストには入っていない。
 「あの白石さん」が目の前にいると知って、声をかけた。「東アフリカのガイドを出したばかりの前川です」と自己紹介すると、「ああ、あの本ね」と言った。本のことは知っているらしかった。
 そういえば、白石さんと話す前に石川晶さんとしばらく話をしていた。簡単なアフリカのリズム講座をしてもらったのだ。石川晶といえば、60年代からの代 表的ドラマーであり、憧れの人だった。やさしさにあふれた人だった。アフリカ音楽のコンサート会場でもしばしばお会いし、ロビーで雑談したことがある。そ の石川さんがケニアに移住したと知ったのは、NHKBSの番組だった。ウガンダの音楽を特集した番組で、平和になったウガンダをテレビで見た。それから間 もなくして、石川さんはケニアで亡くなったそうだ。
 ピガピガでの出会い以来、白石さんには何度も会った。電話などで約束して会ったこともあるはずだが、それよりもアフリカの催し物会場で出会い、その夜に飲みに行き、次の催し物の案内を知るといったことの繰りかえしが多かったように思う。
 ある時、水道橋あたりで、アフリカ音楽講座があった。講師は音楽評論家の中村とうようさんだった。会場には当然白石さんもいて、会が終わってから、飲み にいった。私は酒を飲まないが、そんなことはどうでもいい。白石さんと話しているのが楽しかった。後楽園球場近くの飲み屋だった。
 「前川さん、ある会で、ちょっと話をしてもらいたいんだけどな。謝礼はないんだけど。アフリカに興味を持っている連中の集まりがあって、そこで」
 ビールをガブガブ飲みながら、白石さんが言った。
「話をするというのはいいんですが、東アフリカを旅したことがあって、アフリカの本を数十冊読んだことがあるというだけの男ですよ。なにか、まとまった話なんかとてもできませんよ」
「いや、それでいいんだよ。連中はアフリカに興味はあっても、たいした知識はないし、前川さんみたいな旅はしていない。だから、旅の話をしてくれればいいんだよ」
 それからひと月くらいたって、私は銀座の古いビルでナイロビの話をした。10人くらいが事務所の会議室にいた。話し始めてすぐにわかった。白石さんにだ まされたのだ。「私、チーターが大好きなの」とか「いつか、アフリカの大地に立ってみたいんですよ」といった、いわばアフリカファンクラブのパーティーと いったようなものではなく、アフリカ研究会の勉強会といった雰囲気だった。専門家のなかの、ただひとりの素人が私だから、穴があったら隠れたいほど恥ずか しかったが、穴はなかった。。会の終わりころになって知ったのだが、世話役兼進行係が、アフリカ特派員を終えて帰国したばかりの伊藤正孝氏だから、会のレ ベルが低いはずはない。素人の旅行体験を発表するような場ではない。
 「白石さん、ひどいじゃないですか」
 会が終わって、ちょっと文句をいってみたが、白石さんは笑っていた。私も笑っていた。不本意な状況ではあっても、伊藤正孝さんに会って話ができたのだから、まあ、いいとしよう。
 白石さんが、なぜ私のような素人を勉強会に登場させたのか、その真意はわからないが、想像することはできる。たぶん、大学の学問のネタとしてアフリカを 利用することを嫌っていたのではないか。西洋の学者が発表した論文をもとに、「アフリカはどうあるべきか」などと論じるような会を嫌っていたのではない か。
 1980年代の後半になると、私の興味はアフリカから東南アジアに移っていた。アフリカへの興味を失ったわけではない。東だけでなく西アフリカにだって 行ってみたい。音楽的には、西アフリカのほうがずっとおもしろそうだ。しかし、アフリカにはなかなか行けない。航空運賃が高く、アフリカを知らない人には 理解しにくいかもしれないが、物価は東南アジアよりもずっと高いのである。アフリカに行きたいがカネがなかった。
 東南アジアをフィールドに決めた理由はカネ以外にもある。アフリカに比べて、東南アジアには「書きたい」と思うネタがいくらでもあり、資料も多かったか らだ。旅行者としては、アフリカと東南アジアに興味の差はないが、ライターということになれば、やはり東南アジアのほうを選ぶ。
 バンコクで定住生活を始めた私と白石さんとの交流は文通ということになった。バンコクの私の部屋に、白石さんの手によるアフリカ映画の資料が送られてき たこともあった。そういう気遣いをありがたいとは思うものの、文字通り別世界のものに感じられ、そのうちに文通することもなくなった。
 ちょっと前に、家族でタイ料理を食べたときに、「辛いよー」と泣き出した小学生の息子が、いつの間にかオヤジである白石さんと肩を並べ「タバコ、煙い よ」と文句を言っている高校生になっているという光景が、白石さんと会った最後だった。80年代の末か90年代の初めあたりだろう。
 2005年7月1日の新聞で、久しぶりに「白石顕二」という名に出会った。その日の昼、私は退院して、自宅でその新聞を読んだ。白石さんが病院にいたと き、私もまた同じ急性心筋梗塞で入院していたのだ。白石さんはなくなり、私は無事退院して、白石さんの死亡記事を読んでいた。白石さんは忙しすぎて、私は 暇だったというのが、運命の分かれ目かもしれない。