132話 快傑ハリマオまでの戦後史

     1960年ころのテレビとアジア(4)


 「豹の眼」の後を受けて放送されたのが「快傑ハリマオ」、そして「快傑ハリマオ」にやや 遅れて60年7月から放送が始まったのが、千葉真一主演の「アラーの使者」だ。川内康範の原作で、中東にかつてあったカバヤン王国の秘宝を巡る物語。カバ ヤンというのは、番組スポンサーがカバヤ食品だったからで、ナショナルキッドと同様に、現在から見ればあまりに露骨な宣伝にアゼンとしてしまう。プロレス のリングに掃除機をかけていたのは、小学校低学年のガキでも「あまりに、あざとい」と感じていた。スポンサーが三菱電機だったから、電気掃除機なのだ が・・・・。
 それはともかく、1960年前後にはこのような外国がかかわる冒険活劇がいくつか放送され、人気を集めた。この手の冒険活劇の元は、日活のアクション映画だったことは、この時代の映画とテレビを見ていた人ならすぐ気がつくことだ。
 小林旭の「渡り鳥シリーズ」が始まるのは1959年で、終わるのが62年。このシリーズ唯一の海外ロケ作品は、「波濤を越える渡り鳥」(1961年)で、アキラもジョーもタイに渡った。宍戸錠は同じ年に、やはり海外ロケ作品の「メキシコ無宿」にも出演している。
 日活だけでなく、香港やタイで撮影した作品は数多く、いちいち作品名はあげないがこの時代のちょっとしたブームだったのはたしかだ。
 ハリマオと同じように国策によって英雄に祭り上げられた山田長政の物語も、「山田長政 王者の剣」として1959年に公開されている。長谷川一夫主演で、タイでロケしている。
 1960年前後に海外、とくにアジアを舞台した映画が多く作れられた理由を考えてみたい。

1、経済力・・・・森繁久弥主演の社長シリーズというのがある。1962年の「社長洋行 記」では香港に、63年の「社長外遊記」ではハワイでロケしている。映画のなかで社長が業務渡航しているように、現実の世界でも社長たちが外遊する時代に なってきた。日本の経済力も、戦争が終わって15年たち、ようやく回復してきたわけで、映画やテレビの世界でもそろそろ外国に行くようになった。戦前は軍 事力によるアジア進出だったが、今度は商行為としてのアジア進出だという気分が、戦後15年の1960年だ。 

2、協力体制・・・・映画界では、香港のプロデューサーと組んで共同制作する体制ができたため、日本側の失費が少なくてすむようになった。

3、パンナム・・・・アジア航路を確固たるものにしたいパンナム(パン・アメリカン航空) は、テレビや映画などとタイアップすることで航空運賃がタダになり、パンナム機は映画に登場して宣伝した。テレビの「兼高かおる世界の旅」は、パンナムの バックアップがあって初めて実現した番組だった。

4、オリンピック・・・・1964年開催予定の東京オリンピックは、戦後初めて「日本を外 国に発信する機会」だということを多くの国民はわかっていた。そういうハレの場が近づくにつれ、日本国内も「外国」がブームになってきた。英会話ブームで あり、旅行書ブームでもあり、日本人は海外事情に強い関心を示していた。そういう時代だった。

5、復古ブーム・・・・「豹の眼」が昭和初期の「少年倶楽部」連載小説を原作にしているこ とでわかるように、「快傑ハリマオ」もまた、戦前の「日東の冒険王」(南洋一郎)や「亜細亜の曙」(山中峰太郎)など少年向け冒険小説の焼き直しだと考え ればわかりやすい。 「復古」というのは、もちろん製作者側にとっての話で、過去を知らない少年たちにとっては「復古」された過去もまた新しいものだっ た。60年代の少年雑誌には、戦艦大和ゼロ戦紫電改などが登場するマンガやカラーイラストがよく登場していた。当時の少年たちにとっては初めて目にす るものではあるが、戦前の「少年倶楽部」世代にとっては、それが復古だったのである。

 考えてみると、少年マンガに戦争や軍人が多く登場するのは、東京オリンピックが開催された1964年ころまでではないかという気がする。調査した結果ではなく、ただ「なんだか、そんな気がする」というだけのことなのだが、どうもそんな気がする。
 「復古」の政治的側面も気になるが、まだ霞がかかっていて文章にできる時期ではないので、ここでは触れないことにする。

 参考文献
各種インターネット情報を利用したが、あまりに多いので省略し、活字資料だけ書名をあげておく。
マレーの虎 ハリマオ伝説』(中野不二男、新潮社、1988年)
銀星倶楽部10 ハリマオ伝説」(ペヨトル工房、1989年)
『快傑ハリマオ』上下(原作・山田克郎石ノ森章太郎翔泳社、1995年)
『テレビ史ハンドブック』(自由国民社、1998年)