131話 快傑ハリマオまでの戦後史

     1960年ころのテレビとアジア(3)



 ハリマオこと谷豊が死に(死因はマラリアではなく、秘密保持のため日本の軍部に殺された という説もある)、戦争が終わってからも、「ハリマオ」はしばしばマスコミに姿を見せた。テレビ映画の「快傑ハリマオ」と、石森章太郎のマンガ『快傑ハリ マオ』などだが、その前に触れておかなければいけないテレビ番組がある。
 作家、高垣眸(たかがき・ひとみ)が「少年倶楽部」に連載した「豹の眼」が、大日本雄弁会講談社から単行本『豹の眼』として発売されたのは1928年だった。昭和の初めだ。
 この小説がテレビドラマとなって、1959年7月から60年3月まで放送された。広告代理店の宣弘社の関連会社宣弘社プロダクションが製作したドラマで、同じくこの会社が製作した「月光仮面」の後番組である。
 小説『豹の眼』の正しい読み方は知らないが、テレビ番組では「ジャガーのめ」と読んでいた。「月光仮面」で当たった大瀬康一を再び起用して製作された。「月光仮面」では日本国内が舞台だったが、今度はアジアが舞台だ。
 正義を愛する青年黒田杜夫、秘密結社「青龍党」を率いて清朝再興をめざす少女錦花、そして世界征服をたくらむ悪の一味ジャガーの3者が入り乱れる冒険活 劇なのだが、まあ、はっきりいえば時代錯誤、子供向きだから「清朝」のなんたるかもわからなかっただろうが、昭和初めの少年向け物語をそのままテレビ化す るには無理があった。
 主演の大瀬康一が大人気俳優として認められるのは、1962年から放送の「隠密剣士」からだ。
 「豹の眼」は大人気番組になることもなく、60年3月に放送を終了した。その後を受けて放送されたのが、「快傑ハリマオ」である。舞台は、またしてもア ジアだ。原作は直木賞作家、山田克郎の『魔の城』だ。1956年、日本経済新聞夕刊に連載された小説だが、単行本になったかどうかはわからない。拳銃の名 手である少年が主人公の、少年向け海洋冒険小説でハリマオは脇役として登場する。
 テレビの「快傑ハリマオ」では、日本軍の手先となって働くハリマオは登場しない。日本軍も出てこないから、一応戦後の独立戦争を支援しているような体裁 になっている。この点、マンガでは明快で、戦争は終わったがオランダが戻ってきたインドネシアが舞台となっている。ただし、マンガでは、オランダではなく イギリスということになっているのは、英領だったマレーとまとめてしまおうということだろう。
 つまり、アジアにおいて日本人は侵略者ではなく、西洋列強からの独立を支援する正義の味方だということにしてある。
 石森章太郎の『快傑ハリマオ』は、テレビ版の放送と平行して、60年4月から「少年マガジン」で1年間の連載が始まる。連載の紙面を広告も含めて完全復 刻したのが翔泳社版(1995年刊)だ。「あとがき」に、こんな話がでてくる。漫画家を「男子一生の仕事」だと思えない石森は、映画監督になるための資金 稼ぎとしてこの連載を引き受けた。これが、漫画家としての最後の仕事になる予定だった。石森青年、21歳のときだ。 
 1960年4月から放送が始まったテレビ版「快傑ハリマオ」は、放送史上特筆すべきことが2点ある。2点あるが、その理由がよくわからないのである。謎なのである。
 まず、1点目は、日本のテレビドラマ史上初のカラー撮影だったのである。謎とは、こういうことだ。日本のテレビでカラーの本放送が始めるのは、60年9 月からだ。といことは、「快傑ハリマオ」の放送が始まった4月は、まだカラーの試験放送の時代である。試験といっても、家庭にはまだほとんどカラー受像機 はないから、カラー映像は見られない。見られないから、カラー映像を白黒に焼きなおして、放送しているのだ。しかも、カラー撮影はカネがかかるため5回分 で終了して、あとは白黒フィルムで撮影している。つまり、カラーの本放送が始まったときは逆に白黒フィルムで撮影するというトンチンカンなことになってい る。
 謎のその2は、このテレビ版「快傑ハリマオ」は、日本のテレビドラマ初の海外ロケを行なっているのである。香港、タイ、カンボジアなどで撮影されてい る。1ドル360円時代だ。海外渡航が制限されている時代に、海外ロケを可能にするには、豊富な資金力と政治的裏づけが必要になってくる。「快傑ハリマ オ」関係の資料を読むと、テレビ版のスポンサーである森下仁丹が全面的に協力したとある。かつてアジアで手広く販売していた仁丹を、戦後ふたたび東南アジ アに売りたいという企業側の意図が、番組の海外ロケを可能にしたのだというのだが、さてどうだろう。このテレビ番組が、森下仁丹がスポンサーとなってアジ ア各国で放送、あるいは劇場公開されれば、広告効果もあるだろうが、日本で放送するだけなら、アジア各国での販売増進にはならない。ということは、国外で も放送したのだろうか。
 1980年代になっても、日本のテレビ番組が東南アジアでさかんに放送されていた。「座頭市」など日本映画も、怪獣映画同様一般公開されていた。だか ら、国外で放送される可能性はあるのだが、そのあたりの事情がまだわからない。わからないが、1960年代に海外ロケをしたテレビ映画を考えるには、当時 の映画界事情も調べてみなければいけない。そこに、ヒントがある。