130話 快傑ハリマオまでの戦後史

     1960年ごろのテレビとアジア(2)


 「快傑ハリマオ」のそもそもの物語は、1942年に始まる。この年の1月、日本軍はマ レーを占領し、2月にはシンガポールを占領した。そして、3月。このマレー戦線に参加した男が、マラリアのためシンガポールの病院で死んだ。日本の新聞 は、彼の死を大きく報道している。例えば「大阪毎日新聞」の昭和17年4月3日付けの紙面では、次のような記事が出ている。


 皇軍進撃の殊勲者
 快男児マレーの虎
 三千の部下を使った大親
 数奇な運命の主 九州生れ谷豊氏だった

 開戦と同時にマレー半島に展開された皇軍の電撃的一大侵攻作戦は疾風迅電七十日をもって 新嘉坡を陥れた。この輝く世紀の大戦果は全世界を罵倒せしめ、世界戦史に不朽の金字塔を打立てたが、灼熱瘴癘、猛獣毒蛇の蟠踞する魔の密林地帯を突破猛進 した皇軍将兵の戦果の陰にあって勇猛果敢慕いよるマレー住民とともに挺身皇軍進撃に絶大な協力をなし、全島に「日本人ここにあり」と神州男子の意気を示 し、君国に殉じた一弱冠在留邦人の兵に劣らぬ涙ぐましい陰の死闘振りがこのほど同方面に従軍帰還した藤原岩市少佐から陸軍省にもたらされた。
 話題の主人公はその名もハリマオ(マレー語で虎の意味)と呼ばれ、本名を谷豊という。
 数奇な運命に弄ばれた快男児、福岡県筑紫郡日佐村五十川の谷浦吉を父にもった彼は二歳の折父母とともにコタバルに移住したが、幼にしてマレーで育った彼はマレー人として生活に親しみ、日本語を解せず・・・(以下略)。

 記事の内容は、その谷豊がある事件をきっかけに、反イギリス人・反華人の義賊になり、その後日本軍に協力して大活躍したものの、シンガポールで病死したというものだ。
 谷の死を伝えた藤原少佐は、反英運動を進めるためにインド独立を画策している通称F機関の親玉で、谷もこのF機関の手先となって働いていた。そして、こ の藤原によって谷豊は「ハリマオ」という忠君愛国の英雄に祭り上げられるのである。タイでは「山田長政」なる人物が、やはりアジアで活躍した英雄として祭 り上げられていが、そのマレー版が谷豊だったというわけだ。
 ハリマオこと谷豊の話題は、引き続き新聞に登場し、1943年6月には「マレイの虎」という映画になって公開されている。この映画の主題歌を歌っている のは東海林太郎で、レコードのラベルを見ると、タイトルの「マレイの虎」の「虎」の上に「ハリマオ」とルビがふってある。ということは、この映画のタイト ルも、読み方は「マレイのハリマオ」なのだろう。
 映画の公開直後から、雑誌「少年倶楽部」で、陸軍報道班員の肩書きの大林清が同名の「マレイの虎」という小説を連載している。実在する人物はいたとはいえ、実際上日本軍が作り上げた忠君愛国の英雄は、映画や小説のほか紙芝居や浪曲にもなった。
 「マライの虎」という映画は、反英思想を伝える国策映画ではあるが、それほど力が込められた作品ではない。日本軍のマレー進撃を華々しく描く「シンガ ポール総攻撃」が現地ロケをするときに「おまけ」で製作されたにすぎない。だから、この二作品の出演者はほとんど重なる。「シンガポール総攻撃」で宮本中 尉役を演じている中田弘二は、「マライの虎」ではハリマオになり、小林桂樹は「シンガポール…」で木村一等兵、「マライ…」ではマレー人ハッサンを演じて いる。
 おまけ映画にすぎなかった「マレイの虎」だが、娯楽性が高く、わかりやすいために少年たちにはこちらのほうが人気が高かったらしい。
 かくして、日本の少年の記憶に、ハリマオ(虎)というマレー語が記憶された。