133話 快傑ハリマオまでの戦後史

     1960年ころのテレビとアジア(5)


 このシリーズは前回で終了の予定だったが、書き終えた直後にある資料を読んだので、ぜひとも追加原稿を書かなければいけなくなった。
 資料というのは、『ネオンサインと月光仮面』(佐々木守筑摩書房、2005年)だ。
 広告代理店の宣弘社の得意業務はネオンサインで、この会社が「月光仮面」のようなテレビドラマを製作するために作った会社が宣弘社プロダクション。これらふたつの会社の社長である小林利雄の仕事ぶりを書いたのが、この本だ。
 私の関心事である、1960年ころのテレビとアジアについて、この本でもやや詳しく書いてある。まずは、関連する断片的な情報から紹介しよう。
 この本には、「月光仮面 第二部バラダイ王国の秘密 第一回サタンの爪」の台本とスチール写真が載っている。サタンの爪とはどういう人物かというと、 「バラダイ王国の秘密を狙って、はるばる東南アジアからやってきた」と自己紹介している。その姿は、どこのものともわからぬ仮面をつけているが、下半身は サロンを巻いている。手下らしい二人の男は、インドネシアでソンコックやコピア、あるいはピチなどと呼ばれている黒いふちなし帽子をかぶっている。下半身 には、やはりサロンを巻いている。明らかにマレーやインドネシアイスラム教徒を意識した服装だ。縞模様やチェックの布はいいのだが、バティックをまねた 絵柄の布がインチキ臭くておもしろい。
 私は「月光仮面」についてはっきりした記憶はなく、ただおどろおどろしい雰囲気(お化け屋敷や見世物小屋の雰囲気。あるいは田舎周りの一座の泥臭さ)だけを覚えている。いまスチール写真で細部まで見ると、あきらかにマレーやインドネシアを意識していたことがわかる。
 「月光仮面」の放送は、1958年から翌59年まで続き、その後を受けて放送されたのが「豹(ジャガー)の眼」だ。「豹の眼」は昭和の初めに「少年倶楽 部」に連載された高垣眸の原作だという話はすでに紹介した。昭和初期の物語を30年以上たってテレビドラマ化されたのだが、そのままではなかったと、この 本で初めて知った。原作では、主人公の父親は日本人だが、母親はインカ帝国の王族の末裔だという設定になっていた。それが、テレビドラマまではインカ帝国 が「ジンギスカンの蒙古」に置き換えている。
 この「豹の眼」のあとが「快傑ハリマオ」だから、私同様佐々木守もまた「なぜ、アジアなんだ」と疑問を感じている。佐々木の推理は以下のようになる。
?宣弘社社長の小林は、1945年に召集され現在の内蒙古で1946年まで過ごしている。この体験が、のちのアジアを舞台にしたドラマに反映したのだろう。したがって、宣弘社ドラマは「少年倶楽部」世界のテレビ化ではなく、「大東亜共栄圏」のイメージである。
?宣弘社は、ネオンサインの工事を、1960年の香港をはじめにシンガポールやニューヨークやバンコクなどで行なっている。当時の日本の会社の中で、外国、とりわけアジアが身近だった。
?テレビのアジアものが少年たちに受けた理由を、佐々木はこう書いている。「東アジアや東南アジアという当時としては未知の国々で、狭い日本国内から遠く かけ離れた異国情緒豊かな風物をバックに、日本人らしい正義の味方が悪い外国人と闘う波乱万丈のストーリーが、子どもたちの喝采を浴びたのだともいえるだ ろう」。
 この?については、異論と同意の両方の意見がある。1960年ころの日本の少年の気持ちの平均値はわからないが、私の個人的感情でいえば、日本人が外国 人をやっつける光景に喝采を贈っていたのはプロレスではたしかにそうだが、「月光仮面」のようなドラマでも同じだったかというと、どうもそうではないとい う気がする。私が変わった少年だったのかもしれないが、「日本人は正義の味方 アジア人は悪人」という認識はなかった。
 同意というのは、こういうことだ。いまでは信じられないだろうが、1960年代末あたりまで、映画の世界では香港は「悪の巣窟」として描かれていた。 「香港では、若い女は洋装店の試着室やレストランのトイレで誘拐されて、中東かアフリカのどこかに売られる」という都市伝説が、あたかも真実のように語ら れていた。だから、香港に限らず、港町は危険で、しかし多くの謎と誘惑があると映画で描かれ、そこに格好いい男が現れれば日活映画である。そういう時代 だったということについては、「そのとおり」と同意するということだ。
 いまこの文章を書いていて気がついたのだが、正義の味方が異形のものを倒すという構図は、結局のところのちの時代の怪獣もの(ウルトラマンもの、変身も の)と同じではないかと気がついた。東南アジアの変な人が敵だった時代のあと、怪獣が敵になったというわけだ。その変化に、おそらく人権意識などとは無関 係だろう。
 前回でも書いたように、1960年ころの少年マンガ誌で、戦争の道具を大特集することが多かったのだが、あれはどういういきさつで始まったものなのか、いずれ調べてみたい。