200話 石森章太郎の海外旅行 その1


 「快傑ハリマオ」の連載を終えた石森章太郎(のちの石ノ森章太郎)は、マンガ家生活6年目にして、「マンガ家はもういいや」という気分になっていた。1961年、石森23歳のときだ。
 石森は、マンガ家になりたくてマンガを描いていたわけではない。大学に行く学資を稼いで、大学を卒業したら新聞記者になりたかった。新聞記者でなくて も、小説家か映画監督になりたかった。マンガはそのための準備にすぎないと思っていた。そのマンガで大成功しているのだが、このままマンガ家を続けて行く 気にはなれず、ひとつここいらで仕切り直しをするきっかけに、憧れの西洋に行ってみようと思ったのである。
 ノンフィクション作家として好調なスタートを切った沢木耕太郎が、このままライター生活を続けたらいいのか悩み、日本脱出を考えたのと符合する。

 「憧れの外国旅行でもう一度自分を見つめ直すなんて、ま さにうってつけじゃないか! マンガ界ではまだ誰も海外に行った人はいなかった。(マンガ家を)やめる記念に、僕が一番乗りしてやろう。どうせならできる だけ長く、できるだけたくさんの国を回って、映画で観た憧れの地を歩いてみたい。よし! 行き先はアメリカとヨーロッパ。期間は・・・・三カ月」(石ノ森 章太郎『絆』鳥影社、2003年)

 ときは、1961年。海外旅行が自由化される3年前だから、「外国に行きたい」と思っても、簡単には日本を脱出できない。外国に出かけるもっともらしい理由や書類が必要だった。
 1961年8月に、アメリカのシアトルでSF大会が開催されることを知り、その会を取材するという目的を考えついた。旅の企画を集英社にもちこんで、 「海外取材記者」という肩書きをもらった。三島由紀夫は、朝日新聞社の特派記者の肩書きで海外旅行をしている。外貨の持ち出しには厳しい制限がついていた が、マスコミ関連の取材には比較的制限が緩やかだったのを利用したのだ。
 日本脱出の書類は揃ったが、費用は自分で用意しないといけない。旅行代理店が作成した見積もりを見ると、あまりに高額でとても行けそうになかったが、銀 行口座を確認すると、「なーんだ。これなら、あとちょっと借りればなんとかなるぞ!」と思った。その「あとちょっと」とは、200万円。小学校教員の初任 給が1万1400円の時代の200万円だ。この初任給を現在20万円だとすると、約17倍の上昇ということになる。ということは、当時の200万円は現在 なら3400万円ということになる。それを、「あと、ちょっと」という感覚が、売れっ子マンガ家であるが、まだ本当に「売れっ子」にはなっていない。
 石森は不足分の200万円を出版社からの原稿料前借りという方法でかきあつめて、日本を出発する。23歳の男にこれだけのカネを貸すのだから、やはりマンガはすごい。
 とまあ、ここまでは状況説明で、長くなったので本論は次回に回す。