このアジア雑語林の第103号「間違いやすい『日米会話手帖』」(2005年4月)に、最大のベストセラーの地位を長らく保った『日米会話手帳』のことを書いた。まずは訂正から先にやっておくと、その本の名を『日米会話手帖』と表記したが、『日米会話手帳』が正しい。不注意による誤記である。
誤記を認めたあとでは少々書きにくいのだが、世間では『日米会話手帳』の発行元が誠文堂新光社としているものがほとんどだが、それは違うというのが先に書いた私のコラムの趣旨だ。
ほとんどのインターネット情報も、読売新聞社、文藝春秋、新潮社も、国会図書館の資料でも、発行元を誠文堂新光社としているが、私は種々の情報を総合し て、「科学教材社が正しい」と書いた。大マスコミや日本最大の図書館の知性に対して、チンピラ・へなちょこ貧乏ライターが挑戦を挑んだのである。常識的に いえば、一ライターなんぞに勝ち目はなく、賭けは成立しないということになるはずだ。
私のコラムは、内容的に今一歩説得力がなかったかもしれない。きちんとした証拠を出して、証明したいと思っていたのだが、ついつい手を抜いてしまった。というか、すぐにも、追加情報を書いて、完璧な証明をしようと思っているうちに2年たってしまったのである。
きちんとした資料を出せば、簡単な証明なのだ。『日米会話手帳』そのものは、国会図書館にも収蔵してないほどの貴重品だから、現物を手に入れて、奥付けを見せて「ほらネ!」というわけにはいかない。
現物は手に入らないが、『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日新聞社編、朝日文庫、1995年)を読めば、簡単に謎解きができるのはわかっていた。 古本屋に行けば、そこそこ簡単に手に入るだろうと思っていたら、なんとこの2年間では探せなかったのだ。それで街の古本屋で買うのをあきらめて、インター ネット古書店で買うことにして、その文庫がさっき届いた。
『日米会話手帳』の企画者は、誠文堂新光社の創業者にして社長の小川菊松。会話帳の企画は敗戦の日8月15日の夜で、10月発行予定で奥付けにはそう明示したが、9月には現物が完成し、たちまちベストセラーになった。
誠文堂新光社は軍事関連の本を出していたので紙の配給があり、会話帳を発行することは物理的にできたのだが、「こんなチャチなものをいかに戦後とはい え、誠文堂新光社が発行するのはどうかという意見が社内から起り」と、小川は社史『復刻版 出版興亡五十年』に書いている。もっとも強硬に反対していたの が「倅の誠一郎」だったので、「傍系会社の科学教材社から出せば良いではないか、ということになった」(同、社史)といういきさつがあった。
朝日文庫の『「日米会話手帳」・・・』には、現物の『手帳』が写真で全ページ載っている。漢字を現在の表記に変えて、紹介しよう。
表紙
日米会話手帳
ANGLO−JAPANESE CONVERSATION MANUAL
1945
裏表紙が奥付けにもなっている。
昭和20年10月1日印刷
昭和20年10月3日発行
東京神田錦町2の5 科学教材社刊
定価八十銭