270話 『闇の子供たち』の出来の悪さと不愉快さ 映画編


 映画「闇の子供たち」は、小説とはかなり違う構成になっているが、どちらが「まだまし」ということはない。
 外国人が出てくる日本の小説や映画の場合、言葉の問題をどう解決するかが、私の重要な関心分野だ。通常のアメリカ映画なら、登場人物がロシア人であれ中 国人であれ、英語を話すのが当たり前ということになっているのだが、日本ではさすがにそういう傲慢なことはしない。日本の小説や映画の場合、主人公の日本 人が外国語のうまい使い手という設定にする場合と、逆に外国人が日本語の使い手という設定にするか、あるいは、うまく通訳を使うという設定にする。「闇の 子供たち」の小説の場合はその設定がうまくいかず不具合があったのだが、映画の場合は、登場する日本人はタイ語ができる設定にした。この点に関しては、映 画のほうがすっきりしている。
 さて、映画版に関しては、小説同様、賞賛も批判も数多い。ネット上の批評をかなり読んだが、読んだ限りでは誰も触れていないポイントをここで書いてみよう。
 子供たちが何度も性的暴行を受けるシーンについてだ。阪本順治監督は、細心の注意を払ってこのシーンを撮影したとインタビューに答えているが、私は「こ れが日本を舞台にした物語だったら、どう撮影しただろうか」と思った。日本に児童売買春の組織があるかどうか知らないが、映画なら「ある」ことにしてもい いだろう。「闇の子供たち」では、タイでは心臓の生体移植が行なわれていると、あたかも事実のように描いているのだから、日本に児童売買春バーがあるとい う映画を作ってもおかしくないことになる。
 さて、そこで、撮影だ。「闇の子供たち」とまったく同じシーンを、日本人の子供たちを使って撮影できるか。阪本監督がインタビューで答えているように、 「子役やその親に『なぜこの演技が、なぜこの映画が必要なのか』を繰り返し説明した」(「産経ニュース」2008.8.1)ように、日本人の子役とその親 たちに説明して、同じシーンが撮影できるだろうか。親が同意するだろうか。児童劇団や芸能プロダクションが了承するだろうか。幼い子供が強姦されるシーン の撮影を承諾する親が、日本にいるだろうか。そのあたりを、想像してほしい。
 「闇の子供たち」の映画製作者側には、タイ人ならカネで片がつくという判断がなかったか。「あった」とは言わないだろうが、私には、「日本ではできない 撮影を、カネの力でタイでは撮影できた」としか思えないのだ。日本を舞台にした場面なら、かなり違う絵(シーン)になっただろうし、セリフも違うだろう。
 あるいはこういう仮定は、どうだ。「闇の子供たち」と同じシーンを役者だけ日本人に変えて、まったく同じように撮影できたとして、「闇の子供たち」を絶 賛していた個人や団体(例えば、日本ユニセフ協会)は、同じように絶賛するだろうか。あるいは、子役は日本人で大人の役者は中国人など他のアジア人や西洋 人というアメリカ映画だったとしても、おなじように絶賛するだろうか。
 日本人なら拒否されることが、タイならカネの力でどうにでもできるという実状なら、この映画も児童売買春も同じ構造ではないか。
 そのあたりのことを、想像力を働かせて考えると、この映画、どうにも不愉快なのだ。