350話 阿佐谷時代    1/3

 1970年代の後半の私は、「阿佐谷時代」とでも呼びたい濃密な時間をあの街で過ごした。あの街に住んでいた訳でもなく、路地から路地へと四方八方と歩きまわったわけでもなく、阿佐ヶ谷駅(駅名は、阿佐ヶ谷。地名は東京都杉並区阿佐谷だからややこしい)から徒歩3分ほどの、「木造モルタルアパート・鉄骨外階段・ドアの脇に洗濯機」という6畳一間のアパートでほとんどの時間を過ごしていた。
 阿佐谷への道は、ネパールはポカラのペワ湖畔から始まった。1973年には、観光客相手の施設など湖畔になにもなかったのに、翌74年にふたたび訪れてみると、納屋に多少手を入れて、土間にムシロを敷いて「ロッジ」にしている民宿や、庭に椅子とテーブルを置いて喫茶店にしている家が現れていた。74年あたりを境に、ポカラは登山客相手の街から、山を眺めるだけの貧乏観光客もわずかにやって来る土地にもなったということだろう。登山客は街のホテルに泊まり、旅行者は湖畔にできた数軒の民宿に泊まっていた。
 そんな湖畔を散歩していて、道路から喫茶店に日本人客がいるのが目に入った。私もその輪に加えてもらい、旅の話をした。4人の日本人の中で、アフガニスタン帰りのカメラマンと特に親しく話した。カトマンズに戻って、路上で彼らと再会し、水牛の肉ですき焼き風のパーティーをやった。それぞれが日本での職業から、「カメラマン」「自衛隊」「水道屋」と呼ばれ、職職業不詳のもうひとりは、フルートを持って旅していたので「フルート」と呼ばれていた。すき焼きパーティーの翌日、旅行者はそれぞれ自分の旅に戻っていった。私はふたたびインドに戻り年末に帰国した。
 ペワ湖畔の喫茶店にいた4人の日本人のひとり、「水道屋」から電話をもらったのは、はっきりとは記憶にないのだが、たぶん75年の春だったように思う。
「カメラマンに電話したら、帰国後仕事がなくて、腐ってるっていうから、アルバイトを紹介してやろうと思うんで、近々会うんだけど、あんたも行く?」
 水道屋とは阿佐ヶ谷駅で待ち合わせた。「無職のヤツに、御馳走になるわけにはいかないからよお」といって、スーパーマーケットで食べ物や飲み物を買いこみ、アパートまでの道のりを電話で確認した。水道屋はこれまで何度かカメラマンと会っているらしい。
 その日以来、阿佐谷のあのアパートに入り浸るようになった。「カメラマン」ことシローさんは美人妻のゆみさんとの二人暮らしで、ふたりとも私を歓迎してくれた。アパートに遊びに行けば、「夕飯も食べて行けば・・」という言葉に甘えて、旅の話や音楽や写真の話などをしながら、食事をして、そのあともコーヒーを飲みながらおしゃべりをして、気がつけば深夜で、もう電車がないからという理由で泊めてもらった。いま思い出すと、なんともずうずうしいヤツだと思う。遠慮と言うものを知らないのかと自己嫌悪に陥るのだが、当時はシローさんとゆみさん夫妻と話をしているのが、なによりも楽しかった。シロ―さんにとっては不幸だろうが、私にとっては幸運にもシローさんにはたいして仕事が入らなかったから、新宿にいても、神田にいても、電話をすれば彼はたいてい部屋にいて、「行ってもいい?」と聞けば、「いいよ」と返事してくれて、行けば、短くても翌日の夕方までは阿佐谷に滞在した。
 泊めてもらった翌朝、ゆみさんが仕事に出かけると、我々は阿佐ヶ谷駅前の喫茶店「ぽえむ」に出かけた。ここで、シローさんの友人知人たちに出会い、いっしょに雑談をした。そのひとりは、のちにシローさんが再婚するときに仲人を務めることになる漫画家の永島慎二さんだった。漫画事情に疎い私は、この「ぽえむ」が漫画ファン、とりわけ永島ファンには伝説的な喫茶店だということなどまったく知らず、ただの駅前喫茶店としか思っていなかった。
 その頃の私は、建設作業員や廃品回収業などで旅行資金を稼ぐフーテンだったから、シローさんやその仲間のカメラマンたちから、こんなことをよく言われた。
「そんな仕事してないで、アルバイトでもいいからさあ、どっかの出版社か雑誌編集部にもぐりこんで、俺たちに仕事を回してくれるとありがたいんだけどなあ」。