351話 阿佐谷時代   2/3

 75年の秋だったろうか、いつものようにシローさんのアパートに行くと、居候がふたりいた。シローさんがアフガニスタンで出会ったというスイス人の男がふたり、阿佐谷の6畳一間の若夫婦の部屋にもぐりこんでいたのだ。ふたりはこのアパートを基地に、仕事と住まいを探していた。毎朝、駅で英語新聞を買い、フランス語やドイツ語の教師の求人があれば、部屋から電話した。観光ビザでも、もぐりで働ける外国語学校に電話をかけて、いろよい返事が聞ければ、着替えて面接に出かけているという。
 シローさんと私と、ジョージとジムというふたりのスイス人の計4人の男が、旅の話や音楽の話で盛りあがっているところにゆみさんが帰宅すると、腹をすかした子スズメのえさを運ぶ母スズメのように、食事を用意してくれて、話がはずむと、私も3人目の居候となって、部屋の隅で寝かせてもらった。
 その後私はフーテン生活に終止符を打ち、銀座でコック見習いとなった。土曜日の夜、仕事が終わると、阿佐谷に行くことがあったが、その頻度は昔ほどではなかった。居候のスイス人は、とっくに姿を消していた。
「ジョージが結婚して、帰国することになったんで、ウチでパーティーをやるよ」という電話をもらったのは、アパートで彼らと初めて会ってから1年ほどたったころだった。ジムは書道にこっていた。ジョージはフランス語教師をやっていた。ふたりとも、簡単な会話なら日本語でできるほどに上達していた。
 6畳一間のアパートには、もともと家具はほとんどなかった。テレビもラジオもなく、ステレオコンポだけが小さなタンスの上に乗っているだけだから、6畳間でも10人以上座ることができた。シローさん夫妻に私、ふたりのスイス人とジョージの新妻、彼らが日本で知り合ったラオス人やオランダ人や日本人もやってきた。特別ゲストは、わざわざスイスからやって来たジョージの父親だった。
 私が部屋に入ると、テーブルにはホーローの鍋がセットされていた。ジョージの父がトランクからチーズとワインと、長いフォークを取り出し、チーズフォンデュを作り始めた。日本で用意したのは、鍋とニンニクとバゲットだけだ。スイス人の解説付きで、私は初めてチーズフォンデュを食べた。
 食事の後、コーヒーの時間になると、ジョージの父はトランクからアルミフォイルで包んだものを取り出した。
 英語が話せない父はフランス語で何かいい、ジムが英語に訳した。
「ママが作ったケーキだよ」
 母親が作ったパウンドケーキが、あたかもウェディングケーキのように、新婚のふたりの前に置かれ、人数分に切り分けられた。
ジョージが「心残りだ」と残念がったのは、なけなしのカネをはたいて買ったかなり高額なステレオを持ち帰れないことだった。もちろん船便で送ることはできるが、送料と税金を考えたら、日本で処分したほうが安いし、手間もかからない。「だから、日本から持ちかえるのは、レコード1枚だけにしたんだ。スイスでも、もちろん買えるけど、旅の思い出に、日本盤のレコードを1枚持って帰ることにしたんだ」と言って、ボブ・ディランのレコードのタイトルを口にした。「Bringing it all back homeさ」。
 数日後、ジョージは新妻とともに帰国し、ジムは日本で稼いだカネを持って、再び旅の人になった。しばらくして、私はコックをやめて、旅の人に戻った。シローさんには離婚や再婚といったごたごたがあり、阿佐谷に立ち寄ることはほとんどなくなった。