352話 阿佐谷時代  3 /3

 山手線の車内で、偶然にもシローさんとでくわしたことがある。1980年代に入っていたと思う。
 「おお、久しぶり。元気? なに、ヨドバシの帰り?」
 私が手に提げている紙袋を指さして言った。
 「PKRを、30本買ってきたところ。へぼライターのくせに、生意気でしょ」
 PKRは、コダックローム64プロフェッショナルフィルムのことだ。かつての建設作業員で元コックが、いまはライターとなって、へたな写真も撮っていることは、以前、電話で伝えていた。
 「オレは、東洋現像所の帰り」
これもプロの会話。プロカメラマンが現像を依頼する会社が、東洋現像所(現imagica)。いま、手にしているPKRも、撮影が終われば、私も東洋現像所に持って行くことになる。
 山手線の車内で、ちょっと思い出話をした。別れぎわ、シローさんは、こんなことを言った。
「そうそう、ジョージはいま、日本にいるよ。特派員になって、また日本に来たんだ。この前、連絡があってさ」
 その後、シローさんは長野や静岡に移住したために、もう会うことはなくなった。
久しぶりにシローさんから連絡があったのは、2007年のことだった。手紙だった。
 「体調が悪いので、診察を受けたら胃ガンだった。そんなわけで、まあ、身辺整理をしていたら、むかし撮影したアフガニスタンのフィルムが出てきたんだ。とっくに忘れていたフィルムだけど、なんだか懐かしくなって、本にしたいと思って出版社に話をしたら、幸運にも本になってね・・・」
 その本、『名もなき日々』(ポプラ社)のチラシと、都内で開催する写真展の案内が入っていた。
 写真展で久しぶりに会ったシロ―さんは、外見上、ほとんど変わりはなかった。老けたとか、病んでいるといった感じはまったくなかった。
 「薬って、いやだから、食事療法で直すことにしたんだ」
 そういう精神世界の話が私は大嫌いで、それが顔に出たようだ。
 「まあ、迷信みたいなものだけどさ。いまのところは、まだ元気だよ」
 そう言われても、能天気にバカ話をする気にもなれず、喫茶店で1時間ほど、さしさわりのない思い出話をした。
 それからまた数年たったつい数か月前、まったく突然に、あのジョージの姿を新聞とテレビで見かけた。顔つきは似ているが「間違いなく彼だ」という自信がなく、ネットで確認作業をした。初めは「まさか」と思ったが、間違いない。日本外国人特派員協会の会長に就任したというニュースに登場した人物は、阿佐谷の安アパートで何度も会ったあのスイス人だった。
 すぐさま、シロ―さんにメールを書いたが、いつまでたっても返事がなく、アドレスが変わったのかと思い、ハガキを出した。しかし、返事が来ない。ジョージの消息がわかったときに、あの阿佐谷時代のことをこのブログで書こうと思ったのだが、その最後の文章が悲しいお知らせだったらいやなので、なかなか文章を書き出せなかった。
 私がハガキを書いてふた月以上たって、シローさんからやっと返事が来た。「元気にしてますよ。風邪をひいてグダグダしているうちに時間が過ぎ、返事を書くのが遅くなって、ごめん」
 うれしい便りだった。そして、私はやっと阿佐谷の思い出話を書き始めた。