369話 ソウルのトンカス  1/3

 その人をテレビで何度か見かけて、なぜだか心に引っかかるものを感じた。その人の名前も履歴も知らない。まして会ったことなどない。しばらくして、なぜその人が気にかかるのかわかった。昔会ったことがある人に、よく似ているような気がしたからだ。テレビで見たその人は、長谷川潤という男のような名前の、アメリカ人女性モデルだと、しばらくして知った。昔むかしのソウルで出会った人は、そう、あんな感じの人だった。
 1978年の春、コック見習いを辞めた私はエジプトに行った。エジプトの帰りに、ちょっとフィリピンを旅して帰国する予定だったが、マニラで足止めされていた。フィリピンがどれほどおもしろい国かわからなかったので、出国便の予約は入れてなかった。「これで、もうこの国はいいか」と思ったら、日本までの便を予約しようと考えていたのだ。数週間かけてフィリピンのいくつかの島を旅したら,飽きてしまった。食い物が単調だと、すぐ飽きるのだ。スパイスのない食生活は、味気ない。いよいよ帰国の時かと感じて、マニラ―羽田の便の予約を入れたら、席は5週間先しかとれないという。当時、フィリピンのビザ延長手続きは面倒で、カネもかかった。手間とカネをかけてまで滞在したい国ではなかったので、すぐにも予約がとれるマニラ―ソウルの航空券を買って一気に飛ぼうと考えた。マニラ―羽田の航空券は無駄になるが、しょうがない。日本に帰ったらすぐにでも韓国に行こうと思っていたから、これでいい。片道キップでソウルに入れば、釜山からフェリーで帰国できる。
 当時の常識だが、韓国のガイドブックは持っていなかった。「地球の歩き方」はまだ創刊されていない。ロンリープラネットの「韓国」はまだ出版されていない。ブルーガイド実業之日本社)や交通公社の「韓国」はすでに出版されていたが、ふらふらとさまよう私のような旅にはまるで役に立たない。唯一持っていたガイドブックのような本は、”International Youth Hostel Handbook”だけだった。
 金浦空港に着いて、まず観光案内所に行った。「ソウルで一番安い宿を紹介してください」。こういうと、中年の職員はちょっと困った表情をして、机の引き出しを開けた。ほとんど何も入っていなかったが、数枚ある名刺のなかからを一枚取り出して、私に渡した。英語で印刷してある宿のカードだったが、その名前を覚えていない。簡単な地図ももらい、その宿への行き方を教えてもらった。
 宿がどこにあったのか覚えていないが、光化門やソウル市庁舎などが徒歩圏内にあったことは覚えているから、武橋洞(ムギョドン)地区あたりだったかもしれない。旅行作家ならこの程度の情報でいいのかもしれないが、私の中のノンフィクションライターの部分がもくもくと頭をもたげてきて、本棚の奥深くに捜索隊を派遣した。
今は旅をしても、日記は書かず、メモさえとらないが、あのころはかなり詳しい旅日記を書いていた。その日記は比較的簡単に見つかった。空港の案内所でもらったカードが挟み込んであるかと期待したのだが、カードはなく、宿の名や場所や料金も書いてない。「空港からバス20分、500ウォン」としか書いてない。日記に詳しい記述がないということは、書くほどの出来事がないつまらない日々だったか、毎日楽しすぎて日記なんか書く時間がなかったかの、どちらかだ。
 宿は平屋の古い民家だった。門の脇に小さな部屋があって、そこが受付けだった。そこで手続きをして庭に進む。典型的な民家だから玄関はなく、縁側から部屋に入る。韓国の家はオンドルで暖房するので部屋は小さく、私にあてがわれた部屋も日本式に言えばせいぜい三畳間程度で、窓もなかった。入り口がふすまなので、戸を閉めてもすぐに闇にはならなかった。その宿には、西洋人の旅行者が数人いた。
 日記を読み直して、韓国で最初の食事がビビンパだったとわかった。「飯を食うのが不便」というようなことが日記に書いてある。香港と台湾を除けば、どこの国でもメニューを見て料理を注文したことはないので、ハングルが読めるかどうかは関係ない。タイ語が読めなくても、タイで食事に困ったことはない。屋台で他の客が食べている料理を指させば、それで注文終了だった。食堂でも、あらかじめ作ってある料理を指させば、会話がなくても注文ができた。韓国ではハングルが読めないと、店が食堂かどうかもわらない。店の曇りガラス戸を開けないと、そこが食堂なのか不動産屋なのかもわからなかった。韓国第一日目では、市場の場所もわからなかった。
 安食堂らしき店を見つけて、おばさんに「クッパ」と注文した。韓国語はほとんど知らなかったが、料理名はけっこう知っていた。「クッパ」くらいの料理名はすぐ出てきたが、おばさんは首を振って何か言った。どうやら「ビビンパならあるよ」という意味らしいと理解して、「はい、ビビンパ」と注文した。その料理の姿や味は覚えていないが(まあ、凡百のビピンパだろうが)、「ビピンパ」ではなく、正確には「ピビンパップ」と語尾にP音があるんだということを示すように、おばさんは何度も発音してみせ、私もあとについて発音練習をした。
 おばさんは、年齢的には明らかに日本語教育世代のはずだが、私に対して日本語は一切使わなかった。そういう時代だったのだ。街角や飲み屋で、日本語をしゃべっている日本人が、突然殴られたという事件が珍しくなかった時代だ。
反日」の嵐が吹き荒れているだろうと覚悟していたのだが、表面上は何かの異変を感じるようなことはなかった。街を散歩すれば、古本屋には日本の本や雑誌はいくらでもあった。「定価360円の現代教養文庫に、1180ウォン(約600円)の値がついていたが買う」と日記にある。日本語に飢えていたらしい。日記にはなぜか書名は書いてないが、気になる。
 ソウル第一夜は、その本を遅くまで読んでいたせいと、部屋が暗いせいで、翌日は早起きができなかった。時計を見たら、昼近い時刻だとわかった。日本では朝寝坊の生活だが、旅に出ると早起きになるのに、その日の朝はフィリピンと違って涼しく静かだからか、心地よく寝た。いささか寝すぎた。部屋の外で、誰かが楽しそうに話をしている。その声で目が覚めたのだ。日本語だとわかる。男と女の、元気いっぱいの話し声だ。久しぶりに耳にする日本語だ。