368話 銀座の長靴

 新橋の用事は、思ったよりも簡単に終わった。まだ正午すぎなので、そのまま帰宅する気にはなれず、銀座を散歩することにした。土橋交差点方面に歩いていくと、古風な十仁病院の建物が消えているのに気がついた。いつのことかわからないが、すでに移転したらしい。ちょっと前にも、銀座から新橋に歩いたが、夜だったから気がつかなかった。昼間のこんな時間に、新橋から銀座へ歩くのは久しぶりだ。
 銀座は好きな街だ。ガキがほとんどいないのがいい。銀座に用があって来ることはあまりないが、新橋や八重洲や築地に用があると、必ずと言っていいほど銀座を散歩してから帰宅する習慣になっている。広い歩道をのんびり歩いていると、落ち着いた心持ちになって来るのだ。
 高速道路をくぐると、静岡新聞静岡放送のビルが見える。その昔、私が銀座で働いていたころに、すでにこのビルはあった。円筒に四角い部屋を突き刺したようなデザインで、のちに設計者が丹下健三だと知った。高名な建築家だが、新宿の都庁舎同様、私の趣味ではない。
 かつて私が働いていた中国料理店のあるビルの前に出ると、店の看板がないことに気がついた。とくにどうという特徴のある店ではなかったから、21世紀まで持ちこたえたのが奇跡なのかもしれない。もうとっくに消えていても不思議ではない店だから、閉店したからと言って、格別の驚きや哀しみはない。1976年から78年の春までの約2年間にすぎなかったが、このビルの2階にあった店で、コックの見習いをやっていた。毎日、長靴をはいて、調理場を走り回っていた。楽しい日々だった。
 土曜日の午後は、長い休憩があった。土曜日の銀座は、デパートがあるあたりは混雑するが、それ以外のオフィスビルのある地域は閑散としていて、店を開けていても客はほとんど来ない。だから、いったん店を閉じて、仕込みや掃除をまとめてやろうということになっていた。下っ端の見習いだから、いつも長い休憩時間があったわけではないが、1時間ほど休めると、着替えて銀座散歩に出かけた。
 よく行ったのは、イエナだ。当時は木造の書店だった。店に入ると、正面に階段があり、その脇にレジがあったと記憶している。のちに鉄筋ビルの3階に移転して、2001年ごろに閉店した洋書店だ。
 英語があまりできないくせに洋書店によく行ったのは、旅行情報を仕入れるには、当時は輸入書をていねいに探すしかなかったからだ。時代的には、すでにロンリー・プラネットのガイドは出ているのだが、日本にはまだ入っていなかったらしい。植草甚一愛用の書店だとは知っていたが、この店で植草さんを見かけたことはない。
 2時間ほど休憩時間があると、松屋デパート裏手の古本屋、奥村書店にもよく行った。歌舞伎専門の3丁目の店舗よりも、そのななめ向かいの2丁目の店のほうが好きだった。新刊書は、東芝ビルにあった旭屋書店銀座店によく行った。旭屋書店はその後支店を大幅に整理して、この支店も、神保町古本屋歩きのシメとなる水道橋店も、ともに閉店してしまった。旭屋書店の支店は何店も知っているが、銀座店の品揃えは、なぜか私好みだった。交差点近くの方の入り口を入ると、新刊推奨書コーナーがあって、そこに並ぶ本は、私を狙ったかのような魅力的な選定だった。店に行ったからといって、必ず買うわけではないが、そのコーナーの本に手も触れずに素通りすることはなかった。1980年代に入っても、ここは私がもっとも本を買った新刊書店だと思う。
 当時から現在まで、年に何回かは文具の伊東屋に行く。文房具マニアではないが、この店に入ると、ノートも筆記具もアイデア商品も仔細に点検したくなり、時間を忘れる。
 銀座で仕事をしていながら、銀座の店をほとんど知らない。飲食店を知らないというだけでなく、デパートもほとんど足を踏み入れたことがない。もちろん、銀座の名店も知らない。長靴をはいて走り回っているコック見習いには,縁のない店だ。その代わり、路地裏探検はずいぶんやった。
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 ここまで書いて、ひと月ほどたった。手書きからワープロに変わってからの悪癖だと思うのだが、思いついたことをとりあえず書いておいて、あとから手を入れることが多くなっている。ワープロだと、加筆・削除・訂正・挿入が自由だから、「まあ、とりあえず、忘れないうちに書いておくか」という態度になり、そうしてたまった下原稿のなかから使えそうなものを選び、手を入れてアップする。上の原稿も、ざっと書いて、保存しておいたものだ。
 きょう、古本屋で『怒涛の編集後記』(椎名誠本の雑誌社、1998)を買った。筆者がストアーズ社のサラリーマンとして関わってきた流通業界の専門誌「ストアーズレポート」の編集後記の1969年から80年分の抜粋に、「本の雑誌」の1977から98年分の編集後記を合わせた単行本だ。たまたま、この本のことを知らなかったから買わなかったのか、「本の雑誌」の編集後記は雑誌掲載時にかなり読んでいるから、「買わなくていいか」と思って買わなかったのか、その理由ははっきりしないが、まだ読んだことのない本だということは、多分、おそらく、正しいのではないかという気がする(このあたり、自分の記憶にだんだん自信がなくなってきた)。
 この本の最初の項は、69年と70年分の抜粋が6ページにまとめられている。そこに、こういう文章を見つけた。「十一月一日より本社は右図銀座八丁目に移転します」。
 ストアーズ社が銀座にあることは、椎名さんの自伝的小説『銀座のカラス』などで知っていた。新橋寄りだと察しはついていたが、会社の住所は知らなかった。8丁目か、やはり、新橋寄りだな。国鉄で通勤していたなら、新橋駅利用か。銀座は碁盤の目になっているから、住所がわかれば、だいたいの位置がわかる。
 インターネットでストアーズ社を調べると、「2010年5月31日より下記に移転しました」とあり、銀座7丁目の新住所が書いてある。では、椎名さんがサラリーマンだった時代の旧住所、69年か70年に移転したという「銀座八丁目」の会社はどこにあったのか。現在の会社は移転してまだ日が浅いせいか、旧住所はすぐにわかった。「あれっ」と思いつつ、地図でワンポイント検索していた深夜、椅子から転げ落ちそうになった。なんだ、これは! 私が長靴をはいて走り回っていたころ、隣りのビルの一室で、椎名さんはこの編集後記を書いていたのだ。私が働いていた店の隣に、ストアーズ社が入っている雑居ビルがあり、その隣りの隣りが、例の静岡新聞静岡放送のビルだ。「銀座のカラス」の方々は、じつはお隣さんだったのだ。
 銀座のコック見習いは、休日には、ときどき新宿に行った。とくに用はないが、ただ散歩をしたかったのだが、必ず立ち寄ったのは紀伊国屋書店だ。歩道に直結しているようなエスカレーターに乗ると、2階右手に雑誌売り場が見えてくる。そこには、新宿がまだおもしろかった時代の名残りを感じさせる雑誌が何冊も置いてあった。発行人が自ら持ちこんだミニコミ的雑誌が、ここで直接販売されていた。善良な市民には無縁な場所で売られていた奇妙な2冊の雑誌、「本の雑誌」と、ガリ版旅行雑誌「オデッセイ」を、銀座のコック見習いは、ここで買っていたのである。