2060話 続・経年変化 その26

読書 2 図書館 1

 高校生になると、読書事情がかなり変わる。学校の図書室を積極的に利用するようになった。私好みの本は多くはないが、新書を中心に読んだ。岩波新書にはおもしろそうなものはあまりなかったが、中公新書はおもしろいものが多かった。ノンフィクションや海外旅行記が文庫で次々に出る時代ではまだなかった。

 あのころは、高校の図書室の本をもっともよく読んでいる生徒だったと思う。これは単なる想像ではなく、当時図書委員だったので、生徒の利用状況がわかった上での客観的事実だ。進学校の生徒は、読書よりも受験勉強に忙しかったから、世界と日本の名作文学といった本以外読む人は・・・、松本清張アガサ・クリスティー北杜夫そしてSFなどだろう。大学生とつきあいのある人は、倉橋由美子大江健三郎吉本隆明、あるいはサルトルボーボワールなど、私とは無縁の作家たちの本を読んでいたかもしれない。私よりもちょっと年上の、団塊の世代の教養的読書、つまり「こういう本を読んでいると言ったら、教養人、偏差値高い大学の学生だと思われるだろうな」という打算で、自宅の書棚にこれ見よがしに刺していた本の話は、638話(2014-11-16)でした。

 今思い出したこと。図書委員の上級生が、何度目かのブームになっていた中間小説(純文学と大衆小説の中間にある小説という意味)に浸っていて、「野坂昭如はいいぞ、読め」と、会うたびに勧めるので、根負けして、出たばかりの『アメリカひじき・火垂るの墓』(1968)を読み、感動し、以後10年ほどは折に触れ野坂の本を買った。80年代までの小説やエッセイはあらかた読んだ。あの文体はクセになる。五木寛之を読むのはずっと後で、海外旅行記の資料として買った。1960年代末からの10年ほどは、雑誌「話の特集」や「面白半分」の執筆者たちが書いた小説やエッセイを読んでいたのだった。冊数はそれほど多くはないが、これが私の「第1期小説の時代」といってもいい。70年代末に東南アジアの小説をよく読むようになる第2期小説の時代の話は次回に。野坂の本をあらかた読んだ80年代、新たに参入してきたのが開高健で、小説は後回しにしてエッセイを読み漁った。椎名誠も90年代までにあらかた読んだ。

 話は、高校生のころに戻る。

 高校の図書室で、私と同じくらいよく本を借りていたのは、文学にのめり込んでいたヤツだ。日本と世界の文学全集読破をめざしていたようだ。だから図書館でよく会い、雑談をしたのだが、読むジャンルが違うので、本の話で盛り上がったことはない。

 ずっと後のこと、私が銀座の中国料理店で働いていた頃のことだ。仕事を遅番の人たちと代った夕方、店の従業員たちが麻雀に行くというので、ヒマつぶしについていったことがある。私が知らない世界を見てみたかったのだ。そこは新橋の雑居ビルのなかにある雀荘で、タバコの煙とカレーや親子丼を左手に持ち、麻雀をしている男たち。大人の雰囲気というのはこういうものかと納得した。その店で働いていたのが、高校の図書館でよく会ったあの文学少年だった。元文学少年は、音楽青年になっていた。文学を学ぶために大学に進んだものの、音楽をやりたくなって、音楽大学に入り直したのだという。ここで、その生活費を稼いでいるといった。

 それから2年後、私は店をやめて、外国に行くことにした。横浜から出る船に乗ると、船上にヤツがいた。同じ香港行きの船に乗ることになったのだが、その話は長くなるので、気が向けばそれは別の機会に。

 高校生になって図書室を多く利用するようになったのは、神保町に行く費用を貯めるためだ。読みたい本は近所の新刊書店にはないから、神保町に行く。その本が図書室にあれば、それを読んで古本屋巡りの資金に充てる。数多くの本を読みたい。だから神保町に何度も行きたいのだがカネがない。そこで、買い出し資金節約のために、高校の図書館にある本は借りて読んでしまおうと思ったのだ。新書やノンフィクションを次々と借りた。

 高校を卒業して、高校の図書室の代わりに地元の図書館に行くようにはならなかった。借りた本は、すぐ読まないといけないという強迫観念に襲われることが多く、しかも読書体験が増えてくると、読みたい本の幅や深さが増して、図書館の本では間に合わなくなる。読みたい本が図書館にはないということがわかってきた。

 高校を卒業してしまえば、それなりの稼ぎがあり時間もあるので、神保町に買い出しに行くことが増えた。