391話 誰にも明日は見えない 2/5

 2005年の初夏の木曜日。仕事を終えて駅まで歩いていたら、体が重いと感じた。だるいといってもいい。風邪をひいて熱があると、体が重くてだるいということはあるが、そういう感じとはちょっとちがう。体がほてるという感じではない。10キロの荷物を背負っている感じといっていいのかどうか、自分でもわからない。とにかく、生まれて初めての感覚なのだ。
 夕方から都内で行われる勉強会に出て、そのあと食事会に行った。その時には体の重さなどまったく感じなかった。自宅の最寄りの駅に着いたときはもう深夜で、小雨が降っていた。自宅まであと100メートルもないというあたりで、再び体の重さを感じた。歩いているのがつらくなったが、雨の住宅地では休息できる場所はなかなかない。小さな倉庫が見えた。軒下に入れば、雨宿りができる。コンクリートブロックに腰かけることもできる。自宅まで、直線距離にして50メートルほどしかないが、はるかかなたのように感じる。そういう不安と共に、もしここに住民が歩いていれば、不審者として通報されるかもしれないなどという空想も浮かび、ちょっと気分が楽になって腰を上げた。
 帰宅して、すぐ寝た。寝れば、翌朝には回復しているかもしれないという、驚異の回復力に期待した。
 金曜日。自宅で本を読んだり、料理をしたりするだけなら、それほどつらくない。風邪薬でも飲めば、よくなるだろうと思った。
 土曜日。熱はないが、よくならない。だんだん心配になってきた。ついに、肺をやられたのか。タバコを一口吸って、もうそれ以上は吸いたくない。こんなことは、初めてだ。土曜の午後は、病院の診察はもうないので、月曜の朝に行くことにしよう。相変わらず、体がだるい。自転車で買い物に行くぶんには、それほど苦しくない。
 日曜日。体調、変わらず悪い。だるく、息苦しい。「肺がん」という言葉が浮かんだ。20歳のころから、1日80本ほど吸っていた。多い日は100本を超えていた。日本でも外国でも、フィルターのないタバコを好んでいたから、肺への負担は尋常ではなかったはずだ。
 月曜日。近所のクリニックに行く。大病院のほうがいいのだろうが、3時間か4時間も待たされるのはつらいから、とりあえず、近所のクリニックに行くことにした。すぐ近くだから、自転車なら苦しさを感じないで行けそうだ。
 予想していた通り、クリニックはすいていて、10分ほどで診察の番が来た。医師の前に座り、症状を伝えた。肺の異常を告げられるのは、いまから何分あとかなどとふと思った。告知されるまでは、病気を実感しないですむ。逃れられない事実から、ほんの一瞬だけでも避けていられる。心の猶予期間、まだ病気を知らない時間は、あと数分だろうか。
「では、まずレントゲンで調べてみましょう」
 10分もかからずに検査は終わり、技師がフィルムを医師に届けた。診察室前でちょっと待つように、指示された。頭の中は空白だった。
「前川さん、診察室にどうぞ」
 いよいよ、「その時」だ。恐怖の瞬間だ。今、私は「終わり」を告げられるのか。医師の目の前に、私のレントゲン写真がある。
「う〜ん。これを見る限り、肺に異常は見つからないんですよ」
 声は出ないが、あえて書けば、「ホッ」ということになるだろう。
「それで、ジュンカンキも調べてみようと思うので、ちょっとこちらへ」と別室に案内された。いきなり言われた「ジュンカンキ」という語が、よく理解できなかった。呼吸器や消化器なら聞いただけで理解できるが、ジュンカンキだと「循環器」と漢字で書いてあっても、すぐには理解できない。私にはなじみがない語だ。心電図検査と多分、エコー検査をしたと思う。
 エコー検査をした技師が小走りで医師のもとに資料を持っていく。医師・看護師・放射線技師の3人が、ひそひそと話をしているのが廊下にも聞こえた。予想もしていない何かの異常が見つかったのかもしれない。
「前川さ〜ん。診察室にお入りください」
 看護師に呼ばれて、診察室に入った。
「あのう、どうも・・・、心臓に、異常があると思われますが・・・。詳しい検査はここではできませんので、早急に大きな病院で診てもらうことをお勧めします。どこか、かかりつけの病院はありますか?」
「以前、検診してもらった病院ならあります」
 その病院の名を告げて、腕時計を見た。12時30分。心臓のことなど、考えたこともなかった。息苦しさは、肺の問題だと思っていた。
「いま行っても、数時間待ちに成るでしょうから、明日早起きして、朝から並ぶことにします」
「何言っているんですか!」
医師の声が急に大きくなった。
「今すぐですよ。すぐに行ってください。ここには、車ですか?」
「いえ、自転車で来ました。じゃあ、これから、自転車で病院に・・・」
「とんでもない!」
 母がこのクリニックでたびたび診察を受けてきたせいで、クリニックのスタッフは母をよく知っていて、その縁で「それじゃあ、私が車で送って行ってあげましょう」というスタッフが現れた。
 大きな病院と連絡をとり、受け入れの承諾をとって、いよいよ出発となった。
 車に乗ったところで、「ちょっと家に寄りたいんです。診察券を持っていかないと・・・」とクリニックのスタックに告げた。健康保険証は持っているから、診察券は今すぐ必要ではないことはわかっている。持っていかなければいけない物はないが、家には寄って行きたかった。我が家の我が部屋をもう一度見ておきたかったのだ。
 父は自宅で倒れ、長期入院し、結局、二度と自宅に帰ることはなかった。私とて、この部屋に再び戻って来られるかどうかわからない。これが最後に見る自室になるのかも知れない。クリニックのスタッフが車で待っているのはわかっていたが、書斎の椅子に腰かけ、吸殻だらけの灰皿、本の山、CDの山、メモ帳、棚の本を眺め、灰皿を台所に運んで、水をかけ、家のドアに鍵をかけた。