469話 ずっと、お節料理がきらいだった

 
 近頃、両親に申し訳ないことをしたと、過去の所業を反省することが多いのだが、この時期で言えば、年末の忙しいときに、手間ヒマ、カネをかけて母が手作りしたお節料理をほとんど食べなかったことに、「ごめんなさい」と、あやまりたい心境なのだ。
 小学校高学年あたりから始まった反抗期で、「お節なんて、形式ばった物はいやだ」という反発心で手をつけなかったという面もあるが、まあ、あまりうまいと思わなかったという方が事実に近い。私は食べ物の好き嫌いはほとんどない。「あまり好きではない」という料理や食材はいくつかあるが、食べられないというものはほとんどない。だから、母の熱意に応えて、おいしそうにお節を口に運ぶことはできないわけではないが、そういう大人の心遣いができなかった。
それでも、中学生くらいまではしかたなく、煮物だの田作りだのを食べていたが、高校生になって、多少料理をするようになったら、自分が食べたいものを自分で作っていた。大したものを作ったわけではない。料理書を読んで、手の込んだ料理に挑むのはもう少したってからで、高校生時代は簡単な炒め物か揚げ物程度だ。
 嫌味なものだと思う。せっかく母が作ったごちそうが食卓にのっているというのに、私は台所でごとごとと料理して、それをひとりで食べていた。そして、それからしばらくしたら、正月に家にいることもなくなった。紅白歌合戦、正月、初もうで、お節料理といった「いかにも」の風物が嫌だったのだ。
お節料理を好まないのは、単に反発心からというわけではなく、冷めた料理を食べたくないという理由だと気がついたのは、私が中国料理のコックになってからだ。正月に豪華な料理を食べたかったわけではなく,高価な料理でもない。麻婆豆腐でも湯豆腐でもいい。トン汁でも、焼きそばでもいい。冬の寒い季節の寒い部屋で、冷めきった料理を食べたくなかったのだ。食べ物の好みでも、私は中国人の方に近い。
 子供のころの我が家は、壁からも床からも隙間風が吹き抜けていて、「ウチは、絶対にガス中毒にはならないね」などと笑い合ったものだ。土壁を除けば、断熱材が入った家なんか、日本にはほとんどなかったはずだ。寒い部屋だが、暖房はコタツだけで、家族は室内でも冬の厚着をしていて、もこもこと丸い姿になっていた。家族のだれもが、足や手にしもやけを作っていた。
 そういう季節のごちそうは、重箱に入った冷え切った料理ではなく、熱々の料理がいい。お雑煮だけでは、物足りないのだ。だから、トン汁を作ってそこにモチを入れたり、「すき焼きにしようよ」などと言い出し、実際に私が作った。
お節料理を喜んで食べるのは両親だけで、そのうち母は作るのがだんだん面倒になり、品数が減り、「田作りだけは、食べたいから」と母は自分で作っていたが、「このごろ、堅くて食べられなくて・・・」と言い出してから、お節は完全に作らなくなった。
 お節料理というのは、正月に女が台所仕事をしなくてもいいように、事前に作っておくのだという説もあり、来客が来たときにすぐに料理できないのだから、その説にも説得力があるものの、正月から台所仕事をやることに私はなんら苦痛を感じないのだから、正月であれ、特別なごちそうは作らない。
 1980年代の末から90年代の末くらいまでの10年間の、秋から春まではタイなどアジアで過ごしていた。だから、その間の正月も日本では迎えていないのだが、お節料理や雑煮が恋しいと思ったことはない。
 そういえば、20年くらい前だと、商店は29日か30日に店を閉め、少なくとも三が日くらいは営業していなかった。それが、3日から営業するようになり、2日になり、今年はうちの近所のスパーは1日から営業していた。店に行くと、いつものように人がいて、いつものように買い物をしている。「ビールと刺身を買っているオヤジは、単身者なのか、家族に置いて行かれたのか、ああそうか、コンビニでは刺身は買えないんだな」などと想像しながら、レジに並んだ。まあ、私も同じように思われたのだろうが。
 この文章を書いていて、思い出した。どこで作り方を知ったのか不明だが、母はクチナシの実を買ってきて、きんとんに挑戦したことがあるが、残念ながら我が家では甘いものをおかずにしたい人はいなかったので、きんとん作りはその年限りだった。