573話 排泄文化論序章朝鮮編  その2 

 『庶民たちの朝鮮王朝』 1



 ある日、本屋の棚に『庶民たちの朝鮮王朝』(水野俊平、角川選書、2013)というタイトルの本を見つけた。もしかしておもしろいかもしれないと思い、目次を点検すると、「・・・乞人。便所。下水道・清渓川・・・」という項目が見えて、すぐさま買うことに決めた。便所の資料なら、買うしかない。
 王朝時代(1392〜1910)の漢城(ソウル)の「便所」の項はわずか5ページしかないが、要約すると次のようになる。
・この時代の糞尿の処理法に関する資料はあまりない。
・便所は家の外に作ったが、糞尿の処理がうまくできずに、汚物は路上や川に捨てられていた。王朝末期の19世紀末の記録でも、窓から道路に汚物を捨てるという記述も見られ、パリと同じ状態だったらしい。
・しかし、家々を回り糞尿を集めることを生業とする者たちがいて、人糞は肥料になったという記述も見られる。
 つまり、便所に関するこの項目の記述は、よくわからないのだ。人糞はゴミだったのか、それとも資源だったのか、その両方の説を裏付ける資料があって、実情がよくわからない。
 『ソウル城下に漢江は流れる』(林鐘国著、朴海錫・姜徳相訳、平凡社、1987)は、韓国朝鮮関係書の名作の一冊で、王朝時代の事柄について書いたエッセイだ。私の愛読書の一冊である。この本の「道のフォークロア」という項目に、「路上の脱糞を禁ずる社説」という見出しがついた文章がある。外交官であり法学者でもあった信夫淳平(しのぶ・じゅんぺい)が書いた『韓半島』(東京堂、1901)から、当時の道路に関する文章を引用している。300字ほどの引用文を要約すれば、「市中至る処として排泄物の放出所にあらさるはなく」という状態で、冬は排泄物が凍結しているからまだいいが、春風が吹くとたまらないと書いている。1910年代の新聞の社説でよく取り上げられたテーマは、「路上で脱糞するな」という意見だったという。1911年6月8日の「毎日申報」の社説の一部が、次の文章だ。
 「商家などは一定の便所がないので、屋内に鉄筒あるいは木器を置いて放尿し、それを自家の門前の路上に棄てるので、通りかがりの警吏はそれをまた洗面した水だと信ずるという具合である。自分で自家の門前に汚物を棄てるとは、まことに恥ずべきことである」
 同時代のパリも同じ状況だったが、パリの場合は下水道があったから、雨が降れば、路上の汚物は下水へと流れて行ったが、ソウルではいつまでも路上に残っていたわけだ。人糞を、「ゴミ、汚物」と考えれば、まさか自分の家の前には棄てないだろう。一部のインテリは、それを問題視したが、貧民はもちろん、門を構えている家の者も、排泄物をゴミとさえ思っていないらしい。19世紀末に朝鮮を旅行したイギリスの旅行作家イサベラ・バードも、その著書『朝鮮紀行』(時岡敬子訳、講談社学術文庫、1998)で、ソウルの道路も川も排泄物だらけだと書いている。
 日本の場合、江戸時代の糞尿回収システムに関する資料など一般書でいくらでもあるのだが、朝鮮の場合、知人の研究者によれば、そういう生活に密着した歴史資料が非常に少ないそうだ。江戸時代の日本には、西鶴芭蕉の本や、川柳や狂歌、芝居の本や各種番付など、おびただしい出版物があるのだが、そういう日本の文化は、世界ではむしろ特殊らしい。日本のような町人文化が朝鮮にはないので、便所事情にかぎらず人々の生活に関する文字資料がほとんどないらしい。知りたい欲求の強さに対して、情報があまりに少なくあいまいなので、隔靴掻痒(靴の上から足を掻く)の気分だ。
 ついでに、いままであまり書かれなかった日本の便所事情を書いておく。朝鮮は野グソの世界で不潔だったが、日本は汚物回収をきちんとやっていたので、非常に清潔だったという主張がネット上で反韓キャンペーンのひとつとして展開されている。それは事実ではあるが、日本でも場所が変わると、こういう事情だったという話が、宮本常一の『日本文化の形成』(講談社学術文庫、2005)にある。日本の漁村の話だ。
 「もう、いまはほとんど見かけなくなったが、漁村には便所のない家をよく見かけた。船にも便所がない。船舷から垂れ流すのが普通であった。その習慣をそのまま陸上に持って上がって、大便などは石垣の上から海へ尻を向けてしているのを戦前は見かけたものである」(「海洋民と床住居」より)。石垣のない村なら、日本でもインドのように浜辺で野グソという光景が見られたのだろうか。「餓鬼草紙」の時代なら、街で野グソをしている姿がいくらでも描かれている。
 日本人は毎日風呂に入るから、昔から清潔だったという説を展開する人も多いが、銭湯などない農山漁村では、風呂桶に水をためるだけでも大変な労働だ。昭和に入っても、水道がない家庭では、風呂は大変な贅沢だった。