583話 食文化研究者の「世界」

 『和食の知られざる世界』(辻芳樹、新潮新書、2013)は、やはり辻静雄の息子が書いた本だなと思われる内容だった。この新書に載っている著者の経歴は以下の通り。
「1964年大阪生まれ。12歳で渡英。アメリカでBA(文学士号)取得。1993年に、父・辻静雄の後を継ぎ、辻調理師専門学校校長、辻調グループ代表に就任」
 父は息子に英才教育を与えたようだが、その内容のひとつは視野の狭さだ。父の著作に『舌の世界史』がある。この書名から想像できるのは、世界の料理や味覚や食べ物の歴史の本なのだが、目次を見ればわかるように、ひたすらフランス料理の話を書き綴ったものだ。次の本の「クリックなか見!検索」をクリックして、目次を読むとよくわかる。
http://www.amazon.co.jp/%E8%88%8C%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E8%BE%BB%E9%9D%99%E9%9B%84%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-4-%E8%BE%BB%E9%9D%99%E9%9B%84/dp/4835449428/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1391999526&sr=1-2&keywords=%E8%88%8C%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2
 つまり、辻静雄にとって「世界」とは、フランスだけなのである。フランス料理について書けば、それで世界料理史になるという認識なのだ。そういう父の教育を受けた息子の「世界」とは、フランスとアメリカ(特にニューヨーク)なのだ。この2カ国と日本がわかれば世界がわかると、息子は思っているらしい。
 回転寿司について、彼はこのように書いている。
 「かつて回転寿司はニューヨークにもパリにも登場したが、あっという間に衰退していった」。その理由は、ラーメンが「欧米人の『食文化』の流れの中に入り込む『変換』作業を施した」のに対して、回転寿司は「この『変換』をしないがために、一敗地に塗れた」のだという。「変換」というのは、ラーメンをコース料理に組み込むというような現地化のことを指す。ニューヨークの回転寿司には、「何の『変換力』もなかった。だから飽きられるのも早かった」という。ただし、店舗数の変化といった統計資料はまったく紹介していないから、「衰退」の具合がわからない。ニューヨークの回転寿司が「衰退した」のは事実かどうか知らないが、たとえ事実だとしても、そのことで「世界の回転寿司は衰退した」という結論に持っていくのには無理がある。コース料理にしたニューヨークのラーメン店を評価して、「それなのに」と批判するなら、回転寿司ではなく、寿司全体と対比させるのが当然なのだ。世界の寿司店が、はたして衰退していると言えるだろうか。このように、著者の主張には、論理の持っていき方に無理がある。非論理的で、非実証的な、できの悪い感想文でしかない。
 息子の「世界」が、パリとニューヨークでしかないのに、それだけで世界を論じてしまうのが辻家の伝統芸である。ちなみに、NHKTVが世界の回転寿司を取り上げた「回転寿司大戦争」という番組を放送したのは、2012年である。この手の番組は、テレビ東京などでもしばしば放送されている。「回転寿司、破れたり!」という著者の主張は納得できない。
 もうひとつ、この本から引用する。西洋の料理を日本人はいかにして自分の料理、つまり「和食」に変身させたかというテーマを語った部分だ。
「おそらく、日本で最高のとんかつ屋さんに連れていって喜ばない外国人はいないだろう。けれど、それが西洋から来た食文化だと言っても彼らにはわからない。納得できない。『それは日本人の料理だ』と言うはずだ」
 とんかつが、「西洋から来た料理だ」というならわからなくもないが、「食文化だ」というのは意味がよくわからない。「日本人の料理」というのも、よくわからない表現だ。日本人が作れば、どのような料理でも「日本人の料理」になる。「日本の料理」としない理屈が、私にはわからない。そして、これがもっとも重要な問題なのだが、とんかつを「喜ばない外国人はいない」という主張だ。世界には、豚肉を口にしないイスラム教徒やユダヤ教徒がいることを、著者は知らないはずはない。豚肉に限らず、すべての肉を食べない菜食主義がることを、アメリカ生活が長い著者が知らないはずはない。知識はあるがその知識がまったく身についていないために、原稿を書いているときの頭脳は、フランス料理と日本料理だけで満杯になってしまう。日本最高のとんかつを喜ばない外国人などいるわけはないなどと、大真面目に書いている(いや、この本は、本当にこの校長が書いたのだろうかという疑問もわいてくる)。
 このような指摘を、「重箱の隅をつつく行為」だとか、「揚げ足取りだ」と感じる人がいるだろうが、世界の食文化を語る人にとってはけっして些細なことではない。ところが、「些細なこと」とさえ感じない人たちが、アマゾンのこの本の評価で、高い点を与えている。
 日本料理が、世界の食文化のなかでどういう状況なのかと考察が必要なのに、著者が語るのは、おひとり様3万円とか10万円の料理や、あるいは特別な会員だけの特別な人たちの食事会の例でしかない。視野が狭いから、こんなことも言いだす。
 「日本では、世界が驚くような感性や誰もが天才と認める料理人の登場は稀にしても、技術的にしっかりした中間層の職人のレベルは高いし、層も厚い。それは日本の強みだと言っていい。今の日本には美味しいものはいくらでもある。カウンターに座って、こんなに美味しいものが食べられる国は、世界的に見ても稀だ」
 日本人である著者が、「日本のように、こんなに美味しいものが食べられる国は、世界的に見ても稀だ」という感想をつぶやくだけならそれだけのことだが、「世界のなかでの日本料理論」はなにひとつ語っていない。イタリア人が、「世界でいちばんイタリア料理がうまい。こんなにうまいものがある国は稀だ」と書き、中国人が、フランス人が、韓国人が、同じように書いていたとして、それだけのことだ。外国人に対して、なんの説得力もない。しかも、「カウンターに座って」と書いているが、日本以外のどれほど多くの国に、「カウンター席」があるというのか。「カウンター席の料理の世界比較」という発想が、そもそもおかしいのだ。
 こういう、視野の狭い人たちが、「和食を世界に」と語っているのだ。