742話 机に積んだままの本の話をちょっと その8


 芸能のことから

 私の関心分野のひとつに芸能や音楽がある。芸能を通して見る社会や歴史がおもしろいからだ。最近読んだのは、『蝶々にエノケン』(中山千夏講談社、2011)だ。この本は読まなくても上出来だとわかるのは、索引がついているからだ。学術書ではないのに、きちんと索引がついているというのは、編集者がちゃんと仕事をしているということだ。「名子役」と言われた著者(1948年生まれ)が、その子役時代に出会った芸能人の思い出を語ったのがこの本だ。時代的にいえば、1950〜60年代ということになる。長谷川一夫花菱アチャコ浪花千栄子トニー谷美空ひばり川田晴久古賀政男、佐々十郎、横山エンタツミヤコ蝶々西条凡児三木のり平三益愛子榎本健一、そして三遊亭圓生などが子役とどう接したのかがわかる。
 「やりくりアパート」の話が出てくる。このドラマははっきり覚えている。1958〜60年に大阪テレビ放送(現朝日放送)で放送していたドラマで、正式名は「ダイハツコメディー やりくりアパート」だと知った。このドラマをはっきり覚えているのは、ダイハツの1社提供番組で、ダイハツミゼットが毎回登場していたからだ。西田佐知子がゲストで出ていた記憶もあるのだが、彼女が有名歌手となるのは「コーヒールンバ」の1961年以降だから、「やりくりアパート」とは時代的に合わない。ということは、このコメディーの続編となる「やりくりシリーズ」のどれかかもしれない。
この時代、やたらに大阪発のコメディーが多かったように思う。私が知っているだけでも、ずいぶんある。
 「ダイラケのびっくり捕物帖」(1957〜60)
 「やりくりアパート」(1958〜60)
 「番頭はんと丁稚どん」(1959〜61)
 「スチャラカ社員」(1961〜67)
 「てなもんや三度笠」(1962〜68)
 この当時、私は奈良県に住んでいたので、関西ローカルの番組を多く見たと思っていたのだが、これらの番組は大阪発の全国放送だった。この時代のテレビ番組は、「スーパーマン」(1956年放送開始。終了年不明)や「ララミー牧場」(1960〜63)といった数多くのアメリカ製ドラマと関西発のコメディーで成り立っていたのではないかと思えるほどの盛況だった。
 いまでも、読売テレビ制作の「秘密のケンミンSHOW」のように、大阪発の番組はいくらでもあるが、全国放送でありながら関西弁全面展開という番組は、多分ない。「現在は関西出身の芸人が多くテレビに出演しているから、関西弁が日本中に広まっている」と主張する人がいるが、彼らがしゃべっているのは関西弁ではない。関西弁をしゃべっているようでいて、内容がきちんと伝わるように関西アクセントの共通語でしゃべっているのだ。だから、例えば二人称の「あんた」を「自分」と一人称でいうような、関西でしか通じない方言はほとんど使わない。関西ローカルの番組と全国放送の番組で、ことばの使い分けができる芸人が東京で成功するのだと、島田紳助が解説していたことがある。つまり、昔の方が、生の関西弁が全国に流れ出ていたというわけで、ことばに興味がある私の関心分野にも関係してくる。
 「やりくりアパート」時代(1960年前後)の役者のランクについて、中山千夏はこう書いている。
 「役者のランクづけは、音だけのラジオを別にして、高級な順に、1が舞台、2が映画、3,4がなくて、5にテレビ、というふうだった」
テレビは最低の媒体と認識されていた。映画関係者は、テレビを「電気紙芝居」と揶揄していた時代だ。
 ドリフターズの「8時だヨ! 全員集合」のプロデューサーだった居作昌果(いづくり・よしみ 1934〜2005 )がラジオ東京(現TBS)に入社したのは1956年。彼の著者『8時だヨ! 全員集合伝説』(双葉社、1999)に出ていた話だと思うが、若手の頃、仕事をする気がなくて、だらだらとした日々を送っていたら、上司から「そんなちんたら仕事をしていたら、テレビに飛ばすぞ!」と脅かされたという。テレビはまだ、「飛ばされる」ような閑職だったのである。
同じようなことが、旅行社でもあったらしい。作家山本一力(1948年生まれ)は、若い頃近畿日本ツーリストのサラリーマンだった。その経験を生かした小説『ワシントンハイツの旋風』(講談社、2003)のなかで、だらだらと仕事をしている主人公に先輩が、「そんなだらけた仕事をしてたら、海外部門に飛ばすぞ!」とおどされた。海外旅行部門というのは、旅行社のなかで閑職だったことがよくわかる。居作&山本両氏の著作はどこかにあるのだが、探すのが面倒なので、記憶のままに書いた。「  」内のセリフも、引用ではなく、記憶によるものである。
 『蝶々にエノケン』の時代をもっと知りたくて、『評伝 菊田一夫』(小幡欣治岩波書店、2008)を注文。台湾育ちという経歴が気になったことも、注文の動機の一つだ。すぐさま到着。すぐさま読了。正直に自伝を書いても、誰にも信用されないだろうというとんでもない青少年時代。養父に売り飛ばされた丁稚が、のちに東宝の重役になり、売れっ子の劇作家になる。菊田の代表作のひとつが、戦争孤児を扱った「鐘の鳴る丘」。ラジオドラマ(1947〜50)が、舞台や映画にもなった。舞台(1948年)で孤児のひとりを演じたのが、のちの言語学者西江雅之だということは、西江の本の愛読者なら知っている事実である。
 机の本は毎日増えているが、本の話はちょっと休んで、次回からは別の話をしよう。