804話 インドシナ・思いつき散歩  第53回


 南下を始める その2


 でかい荷物を持ったでかく若い女と、なにかのきっかけで話を始めたのだが、でかい一眼レフカメラを首から下げたその旅行者のアクセントから、ドイツ人かもしれないと推察していた。ドイツ語を使っているのはドイツ人だけではないが、旅するドイツ語話者といえば、ほとんどドイツ人だ。
 「タイ滞在は40時間ほどだったよ」と私が言うと、「私は1泊だけ。きのうヤンゴンからバンコク経由でチェンライに飛んできて、きょうはラオス」。タイも嫌われたものだ。
 そして、旅の話をした。南アフリカからタイに飛び、ビルマに行って戻ってきたところだと言ったので、南アフリカ人だったのかと認識を変えて話をしていると、どうも話がかみ合わない。「私、南アフリカ人じゃなくて、ルクセンブルグ人なんだけど・・」といいだしたので、びっくりした。ルクセンブルグ人との、わが生涯最初の遭遇だ。
 「ルクセンブルグのドイツ語話者はどれくらいいるんですか?」
言語事情が気になって、質問をした。ルクセンブルグは、フランスとドイツの間にあり、ベルギーの隣の国なので、ベルギーの言語事情を考えながらこういう質問をした。ベルギーはオランダ語地域、フランス語地域、ドイツ語地域に分かれている。そういう認識をもとに質問をしたのだが、彼女はけげんな顔をした。
 「学校でドイツ語もフランス語も勉強しますが、多くのルクセンブルグ人がしゃべっているのは、ルクセンブルグ語です」
 「ルクセンブルグ語? ごめん、そんな言語があるって、いままでまったく知らなくて、ごめん」
 母国と母語がほとんど知られていないことに慣れているのだろうが、「いいですよ、そんなこと」と鷹揚な態度を見せた。小国の民の日常なのだろう。ルクセンブルグの位置を知っていただけで、許してもらえた。
 帰国してから調べてみると、ルクセンブルグ語はこの地のドイツ語方言を基本にしているようだが、フランス語の語彙が混じっている。「ありがとう」はDankeではなく、Merci。「さよなら」は、Auf WiedersehenではなくAddi(発音記号省略)で、フランス語のAdieuに近い。オーストリアの場合は「オーストリア語」を名乗らず、「ドイツ語」が公用語としている。ルクセンブルグとどう事情が違うのかわからない。
 「いままで、旅先でルクセンブルグ人に会ったことはある?」
 「ええ、南アフリカで、一度」
 「奇跡って、そういうことを言うんじゃない?」
 人口50万人弱。兵庫県西宮市や千葉県松戸市とほぼ同じ。佐賀県よりもちょっと広い面積だから、50キロ四方の国土である。想像していたほどの小国ではないが、やはりめったに会える国民ではない。全世界に大使館は多くはないだろうから、事故か事件に巻き込まれた時は、ドイツかどこかの国が代行するのだろうかという話もしたかったが、バスはラオス出入国事務所前に着いた。
 ラオスのビザは、もちろん持っていない。国境でとれるかもしれないが、ダメならダメで、またタイに戻ればいい。そうなるとちょっと面倒だが、どうにかなるだろう。出入国事務所に行ったら、私の想像どおり、国境でビザがとれるとわかった。ビザ受付窓口がある。用紙に必要事項を記入して窓口に提出したら、係官は「日本人はビザはいらない」と言い、出入国ブースの方を指差した。カネも時間もかからずに、ラオス入国スタンプを押してもらった。ビザなし入国というのは、空路と陸路の入国で事情が違ったり、入国場所によって、係官によって事情が違うこともあるから、ガイドブックに書いていることがいつも、どこでも正しいということにはならないことを、年季を積んだ旅行者は知っている。
 出入国事務所を抜けてラオスに入ると、ピックアップトラックが止まっていた。「フエサイの船乗り場に行くのか」と聞いたら、「行く」という。ルアンパバン行きの船は11時に出るというが、今は10時50分。日本式に考えれば、間に合わない。さて、きょう、船に乗れるか。乗れても、乗れなくても、どちらであっても、おもしろい旅が始まりそうだ。きのうの夜まで、ラオスに行くなんて考えていなかったのだから、思いつきの旅は愉快だ。
 トラックの荷台に乗った。ルクセンブルグ人旅行者は、どこかに姿を消した。ビザの手続きをしているのだろうか。撮影でもしているのだろうか。ピックアップトラックには、5人の西洋人がいた。中年女性が質問攻めにあっている。「タイで英語教師をしている」と自己紹介をしたので、若い旅行者たちからタイ生活の質問が続き、英語教師がアメリカ人だとわかって、アメリカに関する質問に変わった。それを私は眺めている。
 「大好きなアメリカの街はどこですか?」
 「文句なく、ニューヨーク。私が生まれ育った街だから。サンフランシスコもいい。それから・・・・」
 ちょっと考えこんでいる。その2都市に関しては、異議なし。私も大好きだ。「ボストンはどうです?」と口を挟みたくなった。カンザスシティーも良かったんだけど、あれはミズリー州のほうだったかカンザス州の方だったか・・・。カンザスシティーという街は、どちらの州にも隣り合うようにあって、そのどちらにも行ったので、記憶が混乱していて・・・などと考えていたら、川に着いた。ここがフエサイの船着き場だ。降りたのは私だけだ。11時30分、船はまだ客を待っていた。川幅は50メートルくらいはあるだろうか。船客満載。エンジン音が轟いている。