821話 喫茶室のある飛行機を調べていたら、大変なことになった。その2


 紆余曲折があったものの、1951年8月、日本航空株式会社が設立された。設立当時の常務の名前を見て、また調べたくなった。その人の名は、森村勇だ。森村市左衛門とその弟豊が作ったのがTOTOノリタケ日本碍子(通称の表記は「日本ガイシ」)などの森村グループで、豊の三男が勇だ。豊は福沢諭吉のもと、慶応大学で学び、アメリカへ丁稚方向に出て商売を学んだ。その三男勇の、ハーバード大学留学時代の友人が山本五十六アメリカからの帰路、日本人として初めて飛行機で太平洋を横断した。1939年のことで、新聞記事にもなっている。ニューヨーク・東京が「わずか1週間という驚異」と言う時代である。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00323794&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
 森村は1967年に全日空の社長になっている。1970年に退任したあと、次に社長になったのが、あの若狭得治である。日本航空創世記の話をもう少し拾ってみよう。
 試験飛行に使ったのは、ダグラスDC3。フィリピン航空から借りた飛行機で、機体には「日本航空」と「JAL」の文字が入っているが、尾翼にはフィリピン国旗が書いたままになっている。機内サービスの教官は、フィリピン航空のスタッフだった。
 1951年10月25日、羽田発大阪経由福岡便が、日本航空の初飛行だった。東京・大阪間は90分だ。初飛行だから、日本航空としての機内食も初めてとなる。卵とハムのサンドイッチと紅茶という食事だった。ホテルで調理されたサンドイッチを自転車で銀座の東京営業所に届け、スチュワーデスがバスで飛行機まで運んだという。乗客は空港に集まるのではなく、営業所に来て、乗客乗員ともにバスで飛行場に向かったらしい。羽田飛行場に着いた乗客は、吹きさらしの場所に案内される。「トイレもなく、乗客には市内営業所を出るときに済ませるようにご案内したものである」。
 おもしろそうなので、トイレの話を拾う。スチュワーデスの証言。
 機内の「トイレが故障した時だと思うけれど、機内にオマルを持って上がったこともあったわ」
 整備担当者の証言。
 「いちばんたいへんだったのは、トイレの掃除でしたね。羽田は外国の航空会社が国際線を飛ばしていたから、トイレットサービスの会社がはいっていて汚物を吸い出してもらっていました。(略)大阪のほうでは国際線が飛んでいなかったから、トイレットサービスの会社もなくすべて自分たちでやった。DC4の時代ですが、飛行場を肥桶をぶら下げた天秤棒をかついだのです」
 乗客も乗員も、飛行機の旅にカルチャーショックを受けた。機内食のサンドイッチに入っているチーズを「石けんがはさまっている」と訴える客がいた。「座席にすわるやズボンを脱ぐ客もいる」という文で思いだした。私もそういうシーンの目撃者だ。羽田発の国際線。荷物を棚に置いた爺さんが、やおら座席に登った。何をするのか気になって眺めていたら、ズボンを脱ぎ、ていねいにたたみ、ステテコ姿で座った。こういう光景は、東京駅発の東海道新幹線車内でも、見た記憶がある。ズボンがしわにならないようにという気遣いだろう。
 この本の最後の方は国際線時代の話になるのだが、昔は座席が決まっていなかったから先着順、早い者勝ちだったという。こういうのは、私はパキスタン航空やエジプト航空で経験している。
 戦後日本の航空業創業期の話題が出ているかもしれないと思い、まだ読んでいなかった『腐った翼 JAL消滅への60年』(森功幻冬舎、2010)を急きょ注文して、今届いた。すぐさま読んでみれば、加筆したくなるような話題はまるでなく、資料代の無駄遣いとなった。こうして、本がたまっていく。