1629話 名前の話 その5

 

 名前の話をするなら、氏、姓、名字,苗字などの違いを説明しなければいけないのだが、面倒だから省略する。ネット上に情報はいくらでもあるから、詳しく知りたい人は自分で好きなだけ調べてください。ここでは氏、姓、名字,苗字はすべて同じ意味として書いていく。

 日本人と苗字に関して、ネット上でもいまだに堂々と自信満々に、間違いを書いている人が少なくない。苗字は武士など特権階級にのみ許されたもので、農民たちは明治になって初めて苗字を持ったという解説が、大間違いなのだ。

 名字帯刀という言葉がある。これは武士以外でも、大小の刀を帯びることを許され、公の場で苗字を口にし、書くことを許されたという意味だ。

 鎌倉時代あたりから日本人の多くが苗字を持つようになり、江戸時代にはほとんどの人に苗字があったのだが、公然と使うことができるのは武士や貴族などだけとされた。農民の苗字は寺の書付けや過去帳といった私文書には書いたが、公の場で名乗ることは許されなかった。農民でも苗字を持ち続けることで、家制度を守ってきたのだ。天皇家や僧侶などを除けば、日本人は数百年前から苗字を持っていたのだ。

 オリンピックの選手名を「姓+名」の順にするか、「名+姓」の順にするかという議論があった。呉智英は、姓+名か名+姓かの問題を論じたコラムで、「一般に東洋人は姓・名、欧米人は名・姓である」と書いているが、大いに問題がある発言だ。まず、世界を東洋人・西洋人という古典的2分類で見ている態度だ。そして、東洋はアジアすべてかという問題があり、それ以上に重大なミスは、どんな民族にも姓があるのは普遍的事実だと思い込んでいることだ。

 多くのイスラム教徒には姓がない。父親の名を、自分の名のあとにつけるが、それは姓ではない。マレーシアの場合は、自分の名のあとに、「~の息子」を表すbinをつけて、その後ろに父親の名をつける。タイに住んでいるイスラム教徒の場合は、タイの法律で姓を持つことになっているから、法律上の姓がある。

 インドネシアの場合、他民族国家だからインドネシア人すべての話はわからないが、「姓はない」といってほぼ間違いないらしい。元大統領のスカルノスハルトも、それが名であり、姓はない。称号などをつけても、姓がないことに変わりはない。名がふたつかみっつある場合もあるが、それらすべてが名であり、姓はない。インドネシア女性と結婚したあるインドネシア在住の日本人は、自分の苗字を息子の名の後につけたが、もちろん全部が名であり、姓はない。

 ミャンマーも民族による違いがあるかもしれないが、おおむね「姓はない」といってよさそうだ。 モンゴルも、姓はないと言ってよさそうだ。

 では、インドではどうかというと、非常に複雑で、私の手には負えない。実は、今回のコラムは参考書をチラチラ見ながら書いている。第三世界の人名に関する最良の参考書は、アジア経済研究所が企画した『第三世界の姓名』(松本脩作+大岩川嫩編、明石書店、1994)で、幸いにも現在は古書市場で安く手に入る。1626話の華人の姓リストは、この本に載っていたものだ。この本のもともとの企画は、アジア経済研究所の図書館で蔵書の登録をする場合、著者名の表示をどうするのかという大きな問題があったという。研究者が論文を書く場合、「Johnson 1998」のように、引用する論文の著作者名は姓を書くのが普通だが、問題がある。

 ひとつは、名がいくつもの語から成り立っているが姓がない場合、どの語を姓のように扱うかだ。インドネシアの小説家プラムディヤ・アナンタ・トゥール(Pramoedya Ananta Toer)も、名が3語あるが、姓はない。

 もう一つの問題は、タイ人の場合のように、姓はあるが通常その姓を使わない場合だ。タイ人が書いた論文の著者名を姓でリストすると、通常使っている名では検索できなくなる。規則通り姓を重視するか、通常よく知られた名を使うか決めておかないと、同一論文に筆者がふたりいることになる場合がある。

 『第三世界の姓名』は、徹底的に人名の研究をしてみようと企画した本だ。おなじくアジア経済研究所の英知を使った傑作『アジア厠考』すでに紹介した。

 『人名の世界地図』(21世紀研究会、文春新書、2001)のように、「世界」というタイトルをつけていながら、ほぼすべてが西洋人の名前に関する内容という本はいくつも出ているが、非西欧世界の姓名に関するまとまった資料はそれほど多くない。