毎年、この季節になると思い出すことがあるものの、あの話をアジア雑語林で書こうかと思いつくのはいつも5月か6月になっていて、「来年だな」と思ううちにもう10年以上もたってしまった。今年もついさっきまで忘れていて、別の話を書く予定でいたが、きゅうきょその話を書くことにした。
1980年代のなかばに、雑誌の仕事でカリフォルニアにいた。サンフランシスコに着いてすぐに、編集者が指定した取材コーディネート会社に顔を出した。私の取材地を決め、インタビューの予定を組んでくれることになっていた。
オフィスに行くと、入り口に一番近い席に若い女性がいて、電話をしていた。日本語だった。電話を終えるのを待ち、彼女に来意を告げると、「お待ちしておりました。私が担当しています」と言った。サンフランシスコの市内地図に取材先の☆印がついていた。サンフランシスコは1980年に来ていて、中心部の地理はあらかたわかっているので、取材先のすべてはここから歩いて行けるところにあるとわかる。
「午前中に1カ所行って、あとの4カ所は『きょうの午後に行きます』と先方に連絡していますが、それでいいですね?」
と説明しているところに電話が鳴った。
「すいません、失礼します」
英語で話している。なかなかうまい英語だ。彼女は20代そこそこくらいに若く見える。日本の大学を出てアメリカの大学に留学したという年齢ではなく、高校を卒業してアメリカに留学してここに就職したか、大学時代に1年休学して英語留学したのだろうかなどと想像しながら、彼女の電話が終わるのを待った。
電話を終えてすぐに、オフィスを出た。彼女の案内で取材先に行った。30分ほどの取材を終えて通りに出ると、「わたし、必要なかったですね」と彼女が言った。通訳として同行したのに、私が直接話をしたので、彼女の出る幕がなかったのだ。通訳を介して取材をするのはまどろっこしいので、私がヘタな英語でやった。
「午後の取材もひとりでできますから、午後は仕事に出ているということにして、遊んでいてください」と言った。
取材のインタビューや写真撮影のとき、第三者が脇にいると気が散るからなのだが、彼女を傷つけないようにうまく言えそうになかったから、「以前よく歩いた通りを、またのんびり歩きたいので・・・」と言った。ウソではない。サンフランシスコは好きな街だ。
ふたりがユニオン・スクエアに足を踏み入れた時だった。
「今頃の日本って、桜がきれいなんでしょ。わたし、ここで生まれて、まだ1度も日本に行ったことがなくて、『桜はきれいだよ』って両親から何度も聞いているんですが、実際にはまだ見たことがなくて・・・」
彼女の英語から、まさかアメリカ育ちだとは思えなかった。
何年も後になって、アメリカで生まれ育ったのに、アメリカ英語っぽくない英語をテレビで聞いた。アメリカのテレビ番組に出演していた宇多田ヒカルだ。平板なイントネーションで、R音が強くない。「アタシの英語、うまいでしょ」という感じでしゃべる河北麻友子や、アメリカ人のマネに励んだ小林克也よりもよっぽど日本人風の英語だった。
次回から、食文化の話を書きます。