1822話 校正畏るべし その1

 

 神保町の東京堂でおもしろそうな本を漁っていて、校正校閲に関するエッセイ集『文にあたる』(牟田都子、亜紀書房、2022)を見つけたので、すぐさま買った。東京堂は、出版業界人がよく利用する書店としても有名で、立花隆も愛用者だったらしい。だから、校正校閲といった基本的には出版人しかなじみのない仕事の本が、この書店のベストセラーになっているのはわかるが、2022年8月初版1刷で、私が買ったのは10月の3刷だ。初版3500部で、1000部ごとの増刷か? 今の出版事情では、500部の増刷かな。

 売れているのは訳があると思う。いままで出版された校正本や、日本語エッセイとはかなり違うのだ。私も出版業界に小指1本でぶら下がっているから、校正や日本語を含む言葉の本を多く読んでいて、いままでどういう本がでているのかだいたいわかっているし、すでにアジア雑語林363話(2011-09-29)から全10話でその分野のエッセイを書いている。

 従来の校正のエッセイだと、「つましく」と「つつましく」の違いとか、「役不足」と「力不足」の違いを説明したり、いわゆる「ら抜きことば」をどうするか。あるいは漢字の間違いを指摘するといった内容が多い。この分野では、「捧腹絶倒の校正本の奇書」と言えるのが、『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)だが、正統派の校閲本の傑作がこの『文にあたる』だ。言葉のうんちくの本ではなく、校正者の成長や迷いや気質にも筆が進む。どちらかというと、文章の正しさや統一性を問う校正よりも、文章の最深部まで踏み込む校閲の話が多い。自分の経験談よりもむしろ、同業者の仕事の話が多い。

 『文にあたる』は、ある本の紹介を1回分のエッセイにするという構成にしているから、本の紹介本でもある。

 「全部コピーさせてもらうなら」という章の話はこうだ。『村上海賊の娘』(和田竜)を担当した校正者は、執筆に使った史料はすべてコピーさせてもらい、正しく引用しているかという点検だけでなく、史料の解釈が正しいのかどうか検証したのだという。

 「全部読む仕事」という章は、『わかりやすい民藝』(高木崇雄)を取り上げている。『柳宗悦全集』のどこを探しても「用の美」という語を見つけられないという記述を読んで、調べるのが仕事の校正者の職業意識を刺激した。「用の美」は私でも知っている言葉で、美術品ではなく実用品・日用品にも美があるという意味だと解釈しているのだが、柳の『全集」にはその語はないという文章が正しいのかを証明するには、全22巻の『全集』を読むしかないが、そんな時間はない。「全集にはない」ことの証明をしても、「ここにある」という証拠を見つけないと、「柳は『用の美』とは書いていない」という証明にはならない。著者がこの章で書こうとしているのは、「校正者の限界」である。ないことの証明は、校正者にはできない。

 校正者は事実の確認が仕事とはいえ、場合によって違ってくるという話も出てくる。現実的には見えない物が「見える」と書いてあっても、文学の場合は「心の目で見ている」という解釈も可能だが、ノンフィクションなら校正者は「そこからは見えません」と指摘するべきだ

 この話、長くなりそうなので、「次回につづく」にしよう。