1844話 時代の記憶 その19 仕事4

 

エレベーターガール・・・デパートの各階の案内と、「ご利用階数をお知らせください」という女性の存在は覚えている。その昔、エレベーターは専門係員が扱うものだった。ひとりで街をぶらつくようになって、デパートに行くことはなくなったから、いつまでエレベーターガールがいたのかは知らない。人件費の無駄遣いが明らかなエスカレーターガールでも、1970年代まで生き延びたような気がする。

 そういえば、あれはイタリアだったか、ホテルがあるビルのエレベーターには椅子に腰かけた老婆がいて、エレベーターの操作に専念していた。「素人に触らせる機械ではございません」という態度だった。「そういえば」のおまけ話だが、ナポリの宿がある建物には、「エレベーターの自動販売機」が壁に設置してあった。コインを投入しないと動かない有料エレベーターだ。

駄菓子屋・・・駄菓子屋に出入りしていたのは小学校高学年時代で、時代的には1960年代前半ということになる。中学生になると、アメやイカなどでは空腹を納得させることができず、それほど回数は多くないが、帰宅途中に食堂に入り、ラーメンか焼きそばなどを食べた。駄菓子屋の多くは、その後コンビニに置き換わった。

豆腐売り・・・奈良で暮らしていたときは、自転車で売りに来る豆腐屋がいて、母は鍋を持って買いに行った。千葉に引っ越して大分たつと、近所に豆腐屋ができて、その店に行って買っていた。豆腐屋のおやじは、朝の仕込みを終えると、自転車に豆腐や油揚げなどを積んで、売りに出かけた。親父さんの体が続く限りその商売が続いたが、その店の自転車の豆腐売りは1990年代が最後だったと思う。

富山の薬売り・・・薬売りの姿は見たことがないが、小学生時代に級友の家に遊びに言ったら、弟が紙風船で遊んでいて、「薬屋が置いていった」という。紙風船に古臭い書体で製薬会社の名前がプリントされていたような気もするが、はっきりした記憶ではない。今は、配置薬の名でテレビコマーシャルもしているから現役だ。この『仕事図鑑』には載っていないが、「ガマの油売り」は見たことがある。団地がある駅前広場に人込みがあり、覗いてみたら、ガマの油売りだった。着物を着た男が日本刀を持ち、左腕を少し切り、軟膏を塗って、半紙で押さえるという動きをしながら、口上を語っていく。

ロバのパン・・・ロバが引く車でパンを売る商売は、そもそもは戦前の札幌で始まったそうだが、全国展開は1955年かららしい。『仕事図鑑』には、こうある。

「昭和三十年には「パン売りのロバさん」(のちのロバパンの歌)というテーマソングが流れるようになる。全国百五十件以上の連鎖店(チェーン店)の馬車がこの曲がこの曲を流しながら移動してパンを売った」

 小学校三年生の時、学校の帰り道、ひとりで畑と林の道を歩いていると、後ろからこのテーマソングが流れ、すれ違う時に、馬を操っている男が「乗んなよ」と声をかけてくれ、数百メートルの道を馬車の棚に腰かけて揺られていったことがある。2度目に会ったときは前回のお礼の意味を込めて、クリームパンを買った。柔らかいパンだった。

 中学時代にちょっと話をしたことがある下級生が、「ウチ、ロバのパン屋だよ」といったので、あの親切なおっちゃんの息子かと少々感動したのだが、実際には、そのころはもう「ロバのパン屋」ではなく「自動車のパン屋」になっていたと思う。

サンドイッチマン・・・芸人の方は、サンドウィッチマン。広告を担当していたのはサンドイッチマン和製英語だと思っていたが、ちゃんとした英語だった。体の前後につけた広告板をサンドイッチ・ボードといい、その広告をする人をサンドイッチマンという。『仕事図鑑』では、「昭和30年代の東京で、サンドイッチマンは500人」という。1980年代に入っても、新宿歌舞伎町や新橋あたりで、飲食店などのサンドイッチマンを見た記憶がある。

チンドン屋・・場所によっては、いまでもチンドン屋を見かけることはある。その昔、よく見かけたのはパチンコ屋の新装開店の広告だ。あの姿のまま、公園で休憩している光景は、寺山修司的世界のように見えた。

 

 連載「時代の記憶」はあと4回分あるが、来年分に回しましょう。2022年の更新は、今回で最後にする。1年に160回以上書いてきたことになるが、書くよりも読む方が大変だったかもしれない。文章を書くのは楽しいが、旅物語を書けないのが残念だ。

 年末は『本人に訊く』(椎名誠&目黒孝二)の「壱」と「弐」の2冊、台湾のマンガ『用九商店 第5巻』(ルアン・グアンミン)、『ブックセラーズ・ダイアリー』(ショーン・バイセル)などを本の山から取り出して、のんびりと読んで過ごします。

世は病んで夢は古都をかけ廻る