1931話 映画と本の話

 

 役所広司カンヌ国際映画祭で男優賞を得たというテレビニュースのなかで、過去の出演作を紹介していた。役所主演の映画は数多くあるが、その数の割にはあまり見ていない。「見たい」という感情があまり沸き上がって来なかったのだ。テレビの画面に「すばらしき世界」(西川美和監督、2021)のシーンが出てきた。うん、これはいい映画だったと思い出した。実在の人物をモデルにしているので、映画の背景を知りたくなった。

 作家佐木隆三(1937~2015)のもとに、人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた男が会いに来た。「オレを主人公に小説を書け」という。資料はいろいろ揃えてある。紆余曲折があったものの、その男の身の上話は『身分帳』という作品になり刊行された。

 佐木は2015年に亡くなり、新聞に載った訃報の中で、作家古川薫が「佐木の作品では『身分帳』が真骨頂・・・」と書いているのを、映画監督西川美和が読んで、さっそくその『身分帳』を読んでみようとしたが、すでに「品切れ再版未定」。古本で手に入れて読んでみれば、素晴らしい作品で、映画化を考えた。『身分帳』の巻末で、西川が「復刊にあたって」という文章で、そう書いている。2020年に講談社文庫で読めるようになったのは、西川のおかげなのだ。私も読んだ。今年初めて読んだ小説は、なかなかにおもしろかった。原作を読んで、映画についてあれこれ考えた。

 映画「すばらしい世界」はいくつもの予告編などで概要がわかるので、あらすじなどの解説はしない。

 普段小説を読まないのに、例外的に読んできたのが、この佐木隆三吉村昭のふたりだ。ノンフィクションが好きな私は、事実をもとにした作品の方が食指が動く。小説家の頭の中で組み立てたファンタジーは苦手だ。

 映画『すばらしい世界』を見てから、その原作となった『身分帳』を読むと、映画化するためのフィクション部分が気になる。長澤まさみの役は原作にない。プロデューサーの発案らしいが、長澤まさみのしゃべり方にいらつく。いらない役だ。長澤は、どの作品でも同じような役で同じようなしゃべりをするのが気になっていたから、エセ関西弁のキンチョーCMに驚いた。かねがねすばらしい演技だと感心しているキムラ緑子暴力団組長の妻の役)が、やはりいい。この役は、現実より映画の方がいい。

 主人公を役所広司に決めたのは、佐木の小説『復讐するは我にあり』の殺人者を取り上げたフジテレビのドラマの主演が役所で、そのイメージで映画への出演をオファーしたという。興行的にも、役所の主演は的確なのだろうが、私としては、もっと陰のある顔つきの男、温和と狂気が同居する男ということで考えていたら浮かんだのが、光石研。福岡県育ち、1961年生まれ。的確なキャスティングだと思うが、「彼で、客が呼べるかい?」とプロデューサーは言うだろうな。見て損はない映画で、読んで損はない小説だ。

 本の話をもうひとつ。

 『映画×東京とっておき雑学ノート』(小林信彦、文春文庫、2011)で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に関して、小林はこう書いている。

 「いかに架空とはいえ、映画の中で、運ばれてきたばかりのテレビに近所の人が集まったり、電気冷蔵庫が珍しかったりするのは、<伝説>を絵にしたいだけという気がする。昭和三十三年には、テレビはかなり普及していた」

 小林は、「私はこの時代を生きて来たんだから、体験的に知っているんだ」と言うだろうが、昭和33(1958)年当時のテレビの普及率は10%だった。翌59年には24%に上昇するが、それでも4~5軒に1台という普及率だ。電気冷蔵庫の普及率は、この時代、まだ10%にもならない。

 小林の言う「かなり普及していた」というのは、その程度だ。年寄りは記憶で過去を書きたがるが、資料で確認しておく必要があるという教訓だ。

 石森章太郎トキワ荘で暮らしていたのは1956年から61年までだが、テレビがあったのは石森の部屋だけだった。漫画家のタマゴたちが集まってきた当初は貧乏な若者だらけだったが、すぐに売れて、アパートを出て一戸だけの家に移り住んだ。ちなみに、最後まで残っていたのは石森で、家を建てずにそのカネで世界旅行をしようと考えていた。その希望通り、トキワ荘時代に世界旅行に出かけたと、『トキワ荘物語』(翠楊社1978→祥伝社新書2012))にある。1960年代初めの海外旅行は、都内の家か旅行かと考える金額だったのだ。