1947話 スマホ その翌々日

 

 スマホを契約してすぐ、今まで持っていたガラ携帯の解約をした。ちょうど月末で、急がないと翌月分も請求されるので、すぐさまドコモに行った。

 もともと、ケータイも持つ気がなかった。公衆電話で充分だと思っていたが、1990年代でも、すでに「公衆電話はどこだ?」事件が発生していた。

 早稲田の古本屋を巡っていたら、アジア文庫の大野さんが探していた本がかなり安く売っているのを見つけた。もしもいるなら買っておこうと思い、電話をかけようとしたのだが、早稲田通りに電話ボックスが見つからない。延々と歩き、地下鉄早稲田駅の近くで、やっと電話ボックスを見つけた。

 東京駅の隅の隅、「そんなところ、誰が行くのか?」という場所で、沖縄物産店を見つけたので、友人に知らせてあげようと通路を巡ったが、公衆電話が見つからない。比較的小さな駅なら、公衆電話の位置はすぐにわかるのだが、東京駅ほど大きくなると、なかなか見つからない。ウチに帰ってから電話してもいいのだが、「電話しよう」と思った行きがかり上、どうしても公衆電話を見つけたかった。意地で電話を探す時代になったのだ。10分ほど歩いても見つからない。ちょうどゴミを集めている人がいたので、もしかして知っているかもしれないと思い聞いてみたら、知っていたが、「ちょっと、遠いですよ」。3分ほど歩いて、やっと見つけた。

 やはりそのころだろう。神楽坂あたりの喫茶店で、天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんと話をしていた。「あっ、ちょっと事務所に電話をしないと・・・」と師は席を立ったが、店内に電話が見つからない。カウンターのおばさんに「電話は・・・」と聞くと、「今は、皆さんん、ケータイを持っていらして、店に電話を置いておいても使う人がいらっしゃらなくて・・」といった。その時代は、クラマエ師も、まだケータイを持っていなかったのだ。

 私がしかたなくケータイを持つようになったのは、母が緊急入院してからだ。今後何があるかわからないからということで、姉が手続きをして、ケータイを渡された。それでも、私から用のある時は、公衆電話からかけた。テレフォンカードがたっぷりあるからだ。私の行動範囲なら、どこに公衆電話があるかわかっているのだが、その公衆電話が次々と消えていってから、仕方なく、ケータイを使うことになった。

 そのガラ携帯を、今日解約した。「データは移しますか?」と聞かれたが、「いえ、いいです」と断った。何人かのメールアドレスが入っているが、改めてパソコンから新番号を通知すればいいのだから、アドレスは消えてもいい。もうすでに亡くなった友人からのメールはそのまま残していたが、それも、この際消えてしまってもいい。

 写真は、いままでたった一度だけ撮影した。入院中の母が、「もう、最期の状態です」という医師のことばで、その最後の姿と、計器の心拍数や心電図波形を撮影した。その記憶はもちろんあるが、その映像を見直したことがない。苦しそうな母の最期の姿を見たくなかったのだ。

 「メールや映像が、そのまま残るとは保障できません。消えてもいいんですか。今お持ちのスマホに移しますか?」

 ドコモの店員は親切にそういう提案をしてくれたが、「いいです。消えたら、それで諦めます」と言いつつ、初めて、あの日の写真を取り出した。酸素マスクをつけて、顔をしかめているこんな母の姿は、残さなくていい。

 「ええ、いいです。遮断して、結構です」と言った。

 解約の、すべての手続きが終わった。なんだか、死亡届を出したような気分だった。