1472話『食べ歩くインド』読書ノート 第20回

 

 

 P171ソフトドリンク・・インドの非アルコール飲料という事なら、真っ先にとりあげなくてはいけないのは水だろう。私がインドを旅していた時代は、ペットボトル入りの水などない時代だから、水道水を飲む旅行者とビン入り飲料か紅茶しか飲まない旅行者の2種類に分かれていた。根拠のない想像だが、水道の水をそのまま飲んでいる旅行者が多数派だったのではないだろうか。デリーで高級アパートや邸宅で暮らしている駐在員なら、ビン入りの水か湯冷ましを読んでいたかもしれないが、路地裏をほっつき歩いている昔の旅行者は、下痢で苦しんだ経験があっても。紅茶かビン入り飲料しか口にしないということはあまり考えられない。大量の水分を摂取するために、甘い甘い紅茶を何杯も飲めるものではない。あの紅茶を、1日に2リットルも飲めるものか。

 私に限らず、あの頃のたいていの旅行者は、いつでもどこでも水道水を飲んでいる旅行者だった。食堂で、コップの水を凝視して、ノドが乾いていても、「思い切って飲んでしまおうか、やはり安全のために断水をするべきか」などと悩んでいる旅行者をよく見かけた。コップを持ち上げて、水の濁り具合やゴミが入っているかどうか点検している人もいた。毎日そういうことをしていたら、蒸留水を飲んでも下痢する神経性下痢になるぞと私は思った。

 日本でペットボトル入りの飲み物を売るようになったのは1980年以降だが、1リットル未満の小型ペットボトルの製造が許可されるのは1996年だから、ペットボトル入りの水を持ち歩くようになったのはそれ以降ということになる。東南アジアでも南アジアでも、1990年代までの旅行者は、ペットボトルか水筒に清潔な飲料水を入れて持ち運ぶなどということはほとんどしていないのではないか。

 1980年代だったと思うが、マレー鉄道のクアラルンプール駅で降りてきた西洋人旅行者の手にエビアンがあったのに驚いた。バンコクのセントラルデパートには、フランスのナチュラルウォーターエビアン」や、一升瓶入りの日本酒も売っていたので、「へー」と驚き、駐在員用だろうと想像したのだが、そのエビアンの1.5リットルボトル(多分)を持って旅行している者がいるんだ。あの頃、多分、エビアンは日本でもまだ普通には売っていなかっただろう。しかし、あんな水を何本も持ち歩けるわけもなく、当時の東南アジアでは入手困難だから、補給作戦はどうなっているのかと、旅行者たちをいぶかしく眺めていたら、その旅行者は駅の水道の水をエビアンのボトルに注いでいた。水筒として、再利用だ。

 そういえば、思い出した光景がある。バンコクの、今は亡きジュライホテルにチェックインすると、ガラス瓶入りの冷たい水をくれた。冷蔵庫に置いてあるその水は、従業員が随時、水道の水をビンに注いでいる光景を見ている。

 インドでも、旅行者が口にする水は今ではペットボトル入りのものが多くなっているだろうが、街のその辺の食堂で食事する人は、水道水を飲んでいるだろう。経済的に豊かな人が瓶詰めの水だろうが、大多数は水道水ではないかと想像している。インドを食べ歩いた小林さん自身の飲み物は何だったのだろう。「インド旅行者と飲料水の40年史」というテーマなら、天下のクラマエ師の手にかかれば、4000字くらいの原稿なら朝飯前だろう。読みたいね。

 紅茶の話はあとで書くが、インドの飲み物として取り上げないわけにはいかないものがあとふたつある。ひとつは、サトウキビジュースだ。私は、インドで初めてサトウキビのしぼり汁を飲んだ。ローラーで押しつぶす手動式の機械で、黒く舞うハエをものともせず絞った緑がかった液体に、ライムを絞り、店によって氷のかけらをコップに投げ入れて、「はい!」と差し出される。おそらく、何匹かのハエのしぼり汁も入っていただろう。「水道水など、絶対ダメ」という旅行者は手を出さない飲み物だ。インドの後タイに行ったら、サトウキビのしぼり汁はあらかじめビンに詰め、氷が入ったケースに入れて売っていた。自宅でビンに入れたのだろうが、清潔感はあった。これがインドとタイの違いかと思った。サトウキビはニューギニア原産と言われるが、古代にインドに渡っている。サトウキビは、果物と同じように、「甘い汁を飲むもの」で、砂糖の原料として利用するのは後になってからだ。

 インドの飲み物として、ぜひとも取り上げてほしかったふたつ目のものは、次回に。

 

 

1471話『食べ歩くインド』読書ノート 第19回

 

 

 P161立ち食い・・だいぶ前から、立ち食いについていろいろ考えることがあり、折に触れて情報を探している。最初の情報は、『東西「駅そば」探訪』(鈴木弘毅、交通新聞社、2013)で、「立ち食いソバは、今は立ち食いではなくなっている」というものだ。立ち食いソバはどうしても「男の世界」臭くて、女性客が来ない。そこで新たな客を呼ぶために、店舗面積に余裕があれば、できるだけ椅子席にしようと店内改装をしているという。たしかに、カウンターしかない店でも、カウンターを椅子席にしている店もある。富士そばにも、ほぼすべて椅子席になり、「立ち食いそば」は駅ホームを除けば、もはや歴史的名称になっている。

 欧米には立ち飲みの店はいくらでもあり、つまみを置いている店もあるが、たったまま食事をさせる店は、ピザかケバブのような軽食だ。中国人が路上などで立ったまま丼飯や麺類を食べている光景は見たことがあるが、移動式屋台だと、そもそも椅子もテーブルもない。立ったまま食べるか、その辺にしゃがむしかない。タイ人は、基本的に立ったまま飲食することはない。立ち食いの麺料理店はないし、路上のスナック類でも、そこの立ったまま食べる人は少ない。タイで20年以上暮らしている日本人の友人たちに、「タイで立ち食いは普及するか」というテーマで質問すると、「ものすごく安いとか、深夜や早朝の営業で、営業場所に競合店がない場合なら、もしかして可能かもしれない」という結論が出た。

 立ち食いソバがある日本でも、立ち食いで定食を食べさせる店はないだろうなどと考えている頃、立ち食いのイタリア料理店やフランス料理店が出現したと知った。

 テレビ東京の番組で、立ち食いをテーマに2作放送したことがある。最初の話は、台湾の実業家が、日本の立ち食いソバのシステムを台北で導入しようとしたという話。開店当初から立ち食い客はなく、のちに再取材したら、その店はなくなっていた。2番目の話は、「俺のフレンチ+イタリアン」を上海で展開したいと考えた中国人実業家の話。日本と同じように立ち食いにしようというのが当初の計画だったが、会議を重ねると、椅子席がどんどん増えていく。立ち席を少し残して開店したが、店がどんなに混雑しても、誰も立ち席には行かない。椅子席では食事会が始まったり、パソコンを持ち込んで仕事をする客もいて、「回転率を上げて価格を安くする」という営業方針は完全に大失敗だった。再取材では、客の滞在時間を制限していた。この話は、要約してこのサイトで紹介している。

 今、「俺の・・」の店舗を調べると、立ち食いレストランの本家でも、椅子席が主流になるという変化があったことがわかった。

 外国には立ち食いの店はないのか。スペインのタパスやピンチョやサンドイッチのような食べ物ではなく、ナイフとフォークで食べるような料理を出す立ち食いの店だ。バルト3国の旅で、リトアニアの首都ビリニュスで立ち食いレストランに行ったという話を、台北や上海の話も加えて、1338話で書いている。

 そういういきさつがあっても、インドの立ち食い飯屋だ。路上の屋台で、そもそもテーブルも椅子もないなら、客は立ったままかしゃがんで食べることになる。そういう食べ方ならわかる。だから、問題は、店舗を構えた食堂で、立ち食いのシステムがある店がインドにあるという161ページの記述と写真が興味深いのだ。

 リトアニアの料理店は共産党時代からある店で、おそらく昼食時の混雑を解消するために回転率をあげようと立ち食いにしたのではないかと思うのだが、インドの場合はどういう理由からだろうか。163ページには、「バンガロールではティファン屋にしろチャーエ屋にしろイスを置かないスタイルが多い」というし、しかも食券制だ。「IT都市バンガロールで、なぜ立ち食い?」と、本の余白に疑問を書いた。

 上の文章を書いてからしばらくして、インドの立ち食いの動画をいくつも見つけたので、のちほど別のテーマでまた触れる。

 

1470話『食べ歩くインド』読書ノート 第18回

 

 

 P117カダムバットというライスボール・・たこ焼きの話の次は、おにぎりだ。南インドクーグル料理の代表的料理におにぎりがあるそうだ。117ページに丸めたメシの写真がある。大きさはわからないが、ピンポン玉くらいの大きさではないかと想像する。「日本のおにぎりよりももっと硬く握られている」と解説されている。このクーグル料理とはまったく関係ないと思うが、マレーシアにもこういうおにぎりがある。

 昨今、日本でも話題になっている「シンガポール・チキン・ライス」とか「海南鶏飯」、「カーオ・マン・カイ」などいくつもの名で呼ばれている東南アジアの料理だ。丸のままゆでた鶏を、そのゆで汁で炊いた飯にのせた料理だ。料理の姿は、シンガポールもマレーシアでもタイでもほとんど変わらないのだが、マレーシアのマラッカではかなり違う。

 「Chicken Rice Ball」などの看板がある店で食べられる。中国ではもち米の飯を握ったおにぎりがあることは知っているが、小さなライスボールはマラッカ以外知らない。そのいきさつを調べないといけないなと思いつつ食べただけで、そのままにしている。はたして、南インドの料理と何か関係があるのだろうか。日本料理でも、こういう小さなおにぎりを出すことはあるが、懐石料理とマラッカのチキンライスとは関係ないだろう。

 P125グルメマニアやフードブロガー・・『食べ歩くインド』のような本は、インド亜大陸の人は書かないし、書けない。その理由を書き出してみる。

 1、インド亜大陸を広く深く旅して、食べ歩くという発想は、インド人にはそもそもないと勝手に決めつける。酔狂、道楽、物好きということはインド人でもやる人はいるだろうが、全域踏破というようなことはしない(はずだ)。どういう目的であれ、役人でも研究者でもない者が、食べ物を巡ってインド亜大陸全域踏破など考えないものだ。インドの地域差といったことなら、インド人よりも外国人旅行者の方が詳しいことがある。

 2、インドには食のタブーが多くある。イスラム教徒やヒンドゥー教徒たちは、「何でも食べてみる」という行動は許されない。だから、「何でも」ができるのはキリスト教徒や仏教徒ということになるのだが、食のタブーがないからと言って、何でも食べてみようと思うかどうかは別問題だ。インドの食べ歩き動画をいくつも見たが、ブロガーといった人が食べ歩くのは、映像的にすぐれた店か料理か自分に金銭的利益があるか、あるいは自分の評価を高める権威的な店に行くということもあるだろう。インド人ブロガーの態度は、「そこに行けば、どういう料理があるのだろう。とにかく食べてみたい」という好奇心で行動する小林さんとは、根本的に違う。『食べ歩くインド』は、世に多くある「美味探求食べ歩き本」ではない。

 3、価値観の問題もある。食に対して、インド人は保守的だと思う。ということは、普段自分が食べている料理が世界一うまいと考えている人たちだ。だから、わざわざ旅をして、「まずいに決まっている料理を食べる」ことなんかする気はないのだ。私は「外国人特権」という言葉を時々使う。外国人なら、民族の壁を越えて、どこにでも出入りできるという意味だ。外国人が入れる場所なら、どういう宗教施設でも、そういう宗教料理であれ、口にすることができる。民族も宗教も地域の差も超えて、どこにでも出没できるが、インド人には難しい。この点では、外国人であり、食文化研究については雑食の日本人が特に優れている。

 『食べ歩くインド』は、雑食と好奇心の日本人の手によって初めて完成した本である。日本語の本だということは、日本人には幸運だが、もし英語版なら、発行部数は100倍にもなったかもしれない。とは思うものの、ロンリープラネットの”World Food”シリーズは優れた内容でありながら、増刷されていない。あまり売れなかったようだ。やはり、「前川がいいという本は売れない」という法則どおりか。『食べ歩くインド』は、きっと例外だろう(と、思いたい)。

 

 

1469話『食べ歩くインド』読書ノート 第17回

 

 

 P108ヤシ・・ヤシ酒の話は1459話ですでにしたが、ここではヤシをまとめて解説してみよう。

 熱帯の風景といえば、白い砂浜にココヤシというのが「お決まり」なのだが、ココヤシの林、つまりヤシのプランテーションは植民地化以後の風景である。ヤシを自家用に利用するなら、家のまわりに数本育っていればいい。このヤシの林は産業用である。

 ココヤシは塩分が多い土壌でもよく育つので、海岸線のギリギリのところでも育つ。内陸部では商業的に成り立つほどのココヤシプランのプランテ―ションはできないようだ。というわけで、白い砂浜にココヤシという構図は、そういう植物特性のせいだ。

 ヤシ科の植物は2000とも3000ともいわれているが、日常的によく利用されているのは10種ほどだ。そのなかの変わり者は籐細工のトウだ。ヤシの木と言えば、ココヤシのようなすらりとした姿を思い浮かべるが、トウはトゲのあるつる性のヤシだ。

ヤシ科植物でもっとも知られているのがココヤシで、そのほかアブラヤシ、サトウヤシ、ニッパヤシパルミラヤシ、サゴヤシ、ビンロウヤシなどがある。

 西洋人がココヤシに目をつけたのは、コプラを手に入れるためだ。コプラとは、完熟したココヤシの実にある白い果肉部分(専門的には胚乳という)を乾燥させたものだ。油を多く含んだ胚乳を乾燥させて、絞り、油を取り出す。食用油から、石鹸、ロウソクなどさまざまに利用される。この胚乳をすりおろし、水を加えて絞ったのがココナツミルクだ。ココナツミルクは調味料として使うと同時に、煮詰めて作った上澄み液である油を食用などに使った。

 家庭でココナツミルクを作るには、ヤシの実を取って、割って、胚乳を削って、水を加えて絞るのに1時間ほどかかるから、普段の料理には使わない。祭りや行事などの特別な時に使う。だから、ココナツミルクを使う料理はレストランでは普通でも、家庭では特別な料理だった。「だった」と過去形で書くのは、現在では、果肉をすりおろしたものを市場で売っているし、ココナツミルクの缶詰や紙パック入りや、粉末もある。家庭でも外国でも、手軽にココナツミルクを使った料理を作れるようになった。ただし、自家製と既製品では風味がかなり違う。

 ヤシの実ができる部分(花序という)を切り取って、出てくる樹液を容器に集めてしばらく置くと、発酵して酒になり、さらに放置すると酢になる。発酵する前の樹液を煮詰めれば砂糖になる。ココヤシの実であるココナツは利用価値が高いので、実を犠牲にして樹液を集めるのは経済的な損失になる。したがって、樹液を集めるのは、サトウヤシやパルミラヤシを利用することも多い。油を取るためにはアブラヤシを使う。現在、総称として「ヤシ油」と呼んでいるのは、ココヤシからとるココナツオイルと、アブラヤシからとったパーム油(Palm oil)とアブラヤシの種子からとったパーム核油(Palm kernel oil)がある。

 さまざまなヤシの樹液から砂糖を作ることができるが、サトウヤシの利用価値が高い。樹液を煮詰めるだけで砂糖ができるから、家庭でサトウキビを絞って作るよりもはるかに楽だ。

 タイ語で砂糖は「ナム・ターン」という。パルミラヤシ(ターン)の汁(ナム)というのが語源だ。英語のsugarやフランス語のsucreの語源はサンスクリット語のsarkara(あるいはsharkara、surkaraなどのローマ字表記あり)で、この語の意味は「サトウキビ」であり、その後「サトウキビの汁の粒」、そして「砂糖」の意味になったようだ。ということは、タイの砂糖は海岸沿いで育っていたパルミラヤシの樹液を利用したが、インドの砂糖は内陸のサトウキビ畑で生まれたものだろうと想像している。

 ちなみに、マレー語やインドネシア語で砂糖は、サンスクリット語surkara系のsakarという語があるが、普通はグラgulaという語を使う。サンスクリット語が語源で、インドのグールgurと語源は同じらしい。gurは粗糖(サトウキビのしぼり汁から水分を抜いたもの。精製していないために白くない)のことで、グラニュー糖はchiniという。古代インドには、砂糖を意味する語はsurkaraなどのS系語と、gurのG系語の2系統あることがわかるが、食文化史や言語学のド素人には、それぞれの違いがわからない。

 インドの砂糖に関しては、この研究報告に詳しい。またしても、農畜産業振興機構の文章だ。

 

1468話『食べ歩くインド』読書ノート 16回

 

 

 P42tiffin・・私が初めてtiffinという語に出会ったのは、シンガポールの、かのラッフルズホテルの”Tiffin Room”という北インド料理店だった。ある雑誌が、「シンガポールで、何か面白い企画を」と依頼され、出版社がカネを出してくれるなら、この機会に体験しておこうと、ラッフルズホテル探検を企画して、難なく承認されて、この貧乏人が分不相応にも宿泊体験取材を行なったのである。もう30年以上前のことだから、かすかな記憶で書くと、そのときホテルからもらった資料では、tiffinとは植民地時代のイギリス人が「インド風昼食」という意味で使った言葉で、”tiffin box”は、南アジアや東南アジアで今も使われている2段から4段に重ねる円筒形弁当箱のことだ。

 このtiffinを、『食べ歩くインド』では、ティファンと表記して、TeaとMuffinを組み合わせたTiffinという古典英語がインドで「軽食」の意味で定着したインド英語だというのが小林さんの説だ。

 ちょっと辞書を調べると、tiffinの発音は「ティフィン」でいいはずだが・・と思いつつ、『新版 誰も知らないインド料理』(渡辺玲、光文社知恵の森文庫、2012)を読むと、「ティファン(TIFFIN 本来ティフィンと発音するのでしょうが、なぜかティファンと聞こえます)」と書いている。ということは、イギリスではティフィンだが、インドでティファンと発音が変化したのか。

 世の中便利になったもので、手軽にOED(『オックスフォード英語辞典』)をコンピューターで調べられる上に、発音も聞くことができる。聞いてみると、「ティフィン」と聞こえる。tiffinは口語あるいは俗語のtiffingが元で、「ちょっと飲む、つまむ」という意味からインドでは「昼飯」の意味になった。その歴史的変遷が、この辞書に詳しく書いてある。

 さあ、これで解決か。イギリスでは「ティフィン」だが、インドでは「ティファン」と変化したのだろう。一応、手元の『リーダーズ英和辞典』(研究社、1994)を見ると、fのあとの母音の発音が[ ə ]なのだ。アとウの間のようなあいまいな音だから、カタカナで書けば、ティファンに近くなる。う~む。わからん。しかし、様々な辞書で調べた結果を多数決で判定すれば、英語としては「ティフィン」だから、「ティファン」はインド訛りだろうか

 P51たこ焼き・・インドにはパニヤラムというたこ焼きに似たものがあるという。カステラのようなスポンジで、辛い物もあるが、甘くしてたべることが多いようだ。動画は、これ

 たこ焼きのような食べ物は外国にもあると初めて知ったのは、タイのカノム・クロックだった。球というより、2個合わせても空飛ぶ円盤のような形にしかならないが、まあ、たこ焼き風だ。それは1980年代の話で、ずっと後、インターネットの時代に入って、たこ焼きを検索すると、世界各地にたこ焼き風な食べ物があることがわかった。オランダやデンマークにもあることがわかった。

 日本には自称「たこ焼き研究家」という人がいて、本も書いているのだが、たこ焼きの歴史のなかでもっとも重要なことが書いてない。たこ焼きにとってもっとも重要なことはタコが入っているかどうかよりも、丸いことだ。鉄板で平らに焼くとお好み焼きになる。球形に焼けば、タコが入っていなくても、たこ焼きの仲間として扱われる。だから、球形に焼くあの鍋がぜひとも必要で、それがいつからどのように出現したのかを解明しないと、タコ焼き史は完成しない。

 私が不勉強なだけかもしれないが、あのたこ焼きの鍋について詳細な歴史を書いた人を知らない。私には仮説はあるが、もっと調べてからでないと発表できない。

 インドの鍋で注目すべきものはほかにもある。中央がややくぼんだ鉄板を使いたがるクセがよくわからない。お好み焼きのようなものを焼くなら鉄板でいいのだが、汁気の多いものも鍋ではなく鉄板で料理したがる理由がわからない。

 炒め物は鍋の方が料理しやすいのにと思っていたら、インドにも中華鍋が普及しているのがわかる。いわゆる中華鍋のコピーと言えるような形の鍋もあるが、取っ手がちょっと変な例をふたつ見つけた。取っ手ナシと棒状取っ手。どちらも炒飯を作っているので、インド化した中華鍋の例だ。こういう鍋をインド料理に使おうという発想はあるか? この手の両手鍋は、世界各国にあるのだが。

 インド式中国料理の動画を見ていると、インド人は「手早く炒める」という作業が苦手らしいとわかる。中国料理の料理人なら、30秒か1分で炒める料理を、インド人はこねくり回して数分かかる。火が弱いせいもあるだろうが、野菜の「シャッとした歯触り」も好きではないらしい。インド料理は、基本的に煮込み料理だとわかる。

 

 

1467話『食べ歩くインド』読書ノート 第15回

 

 

『食べ歩くインド 南西篇』

 今回から、『南西編』に入る。

P15菜食・・このページの文章が、私にはよくわからない。インド料理を知らない私がいうのは、ちゃんちゃらおかしいと言われそうだが、私の疑問はこういうことだ。

 「一般的なイメージとして持たれている、北インドが肉食中心の料理、南インドが野菜中心の料理というのはむしろ逆なのだ」

 というなら、「北インドは野菜中心の料理で、南インドは肉食中心の料理」というのが正しい姿だということらしいが、そうなのかなあ。小林説が間違いだなどと大それたことを言う知識はないから、「ふーん」と思っただけだ。だから、「実は南インドは肉料理中心で・・」というなら、ヨーロッパのように牧場で家畜を育てて売るという酪農・牧畜業と流通のシステムが古くからできていなければ、ほとんどの人は菜食だったはずだ。そして、「北インドは野菜中心の食事」だというなら、その野菜というのは、どういう野菜をどのくらい栽培していたのかといった農業史の裏付けも必要だ。現在の姿を見ただけではわからない。過去も踏まえて、この問題は考えないといけない。

 菜食主義の背景にはいろいろあるとは思うが、そのひとつは、いままでさんざん肉を食べてきた人が、過去を反省し、悔い改めるために菜食主義者になるということがあると思う。これが第1世代で、次の世代にも親の菜食が子供に受け継がれる。だから、もともと肉など食べる余裕のない人たちは、改めて菜食主義者を志すこともない。こういう人たちを、私は経済的菜食主義者と呼んでいる。欧米で菜食主義者が増えているのは、いままでさんざん肉を食べてきたから菜食に転身したのだ・・・というようなことを、日ごろ考えている。

P34パロタ・・1974年、マレーシアのペナンから船に乗ってマドラスに向かった。航海中の食事は船賃に含まれているので、3食を腹いっぱい食べられた。最低クラスの船室客たちの唯一の楽しみだった。普通に考えれば最低の飯だろうが、私には「まずかった」という記憶はない。「うまかった」ものはある。好んで食べたのはパイ状のパンで、食堂で名前を聞いたら、「パラータ」という返事だった。このパンが気に入ったので、マドラスに着いてからもよく食べた。食堂で、作り方を見た。発酵させた精白小麦粉をひとつかみ取り、油をまぶして練り、またしばらく発酵させる。すでに充分発酵させたものを取り出して、油をまぶしながら透けるほど薄く延ばし、くるくると巻いて円盤状に薄くして、油がはいった鉄板で焼いたものだ。

 この本に出てくるパロタが、かつて私が食べたパラータなのかもしれないと調べたのだが、深い沼に入ってしまった。ネットで調べてみたが、parothaとparottaの違いが判らない。画像を調べると、同じもののように見える。34ページで、パン・パロタは「ケララのソフトな仕上がりのポロタとは全然違う」と書いているので、そのケララのポロタを調べたら、porottaも出てくるが、それ以上にparotta やparattaといった表記がある。元はラテン文字表記ではないから、いくつも表記があるのだろうと理解する。この謎を解明する基礎学力がないから、これ以上深追いしない。識者の解説を読みたい。

 パラータ関連で気になったことがいくつかある。まず、マレーシアのロティ・チャナイroti canaiだ。マレーシアでは「ロティ」は、パンの総称で、インドのパンに限らず、甘いパンもフランスのパンも、すべてロティーだ。ロティ・チャナイのcanaiの意味がよくわからない。Chennai(マドラス)が変化したものだという説もあるが、さて、どうだか。マレー語辞書では「湿らせる」「なめらかにする」という意味の単語で、ロティ・チャナイそのものは、パイ状のパン、インドのパラータだ。マレーシアのインド人屋台で、「ロティ・チャナイをください」というと、このパラータを油で焼いてカリッとさせて、皿の上で握りつぶし、スパイス風味の汁をかける。シート状に薄く延ばした生地でタマゴを包むと、roti telur。バナナを入れるとroti pisangになる。rotiのあとに使う食材の名をつけると料理名になる。

 1990年代に入ってから、もしかすると2000年代に入ってからかもしれないが、バンコクでも屋台でこの食べ物を見かけるようになった。タイ語「ロティ」と呼んでいるが、マレーシアのroti telurとroti pisangを合体させたもので、タマゴとバナナを入れて包んで焼き、加糖練乳を浴びるほどかけたもので、それはもうひどく甘い菓子になっている。練乳だけでは満足せず、その後チョコレートをかける店も出てきた。

 肉やタマネギやタマゴを入れると、murtabakと別の名前になる。

 ケニアのナイロビで、ムルタバを見かけた。スワヒリ語でMukate ya Mayaiという。直訳すると「パンとタマゴ」だ。よく発酵させた小麦粉のひと塊を透けるほど薄く円形に延ばし、熱した鉄板にのせる。ここまでは、マレーシアのロティ・チャナイと同じだ。中央にタマネギと肉のみじん切りを入れて、タマゴを割り入れる。クレープ状の台の上下左右を中に織り込んで、四角くする。裏返してよく焼く。塩味だ。

 この食べ物の経歴がわからない。マレーシアでもケニアでもインド人が作っていたから、インド起源だと想像していたのだが、インドで同じものが見つからない。ウィキペディアは、日本語版でも英語版でもこの食べ物を解説していて、サウジアラビアクウェートからマレーシアやインドネシアに広がっていると書いているが、日本語版も英語版も、「インドにもある」とは書いてない。日本語版は「デリー・スルターン朝(1206~1526)時代のインドが発祥である」としている。英語版は“Murtabak might originate from Yemen, ”としていて、真実がわからない。

 この食べ物だけで、1冊分になるほど複雑な過去と想像を超える広がりがある。

 

 

1466話『食べ歩くインド』読書ノート 第14回

 

 

 コメの話の3回目だ。

 『料理の起源』に続いて、『アジア稲作文化の旅』(渡部忠世NHKブックス、1987)から情報を探した。この本の内容に、記憶はない、傍線も付箋もないから、もしかして読んでいないのかもしれない。そんな気がしたのは、この本はもっぱら雲南、アッサム、インド亜大陸に焦点を合わせ、私がもっとも知りたい東南アジアが出てこないからではないか。

 いままでインドに手を出さなかったのは、広大な沼に足を取られるのを避けたかったからだ。インドに手を出すと、いくつかの言葉の勉強をはじめ、インドの基礎学力を身につけるのに時間とカネと手間がかかり、結果的にインドしか知らない人間になってしまう危険性がある。それは中国も同様で、だから三輪車研究では、中国もインドも手をつけなかったのだ。インドネシアもそれに近く、本格的に手をつけなかったのも、島が多すぎて、主要な島の基礎知識を頭と体で体験しようとすると気が重くなる。

 私の興味は、あるテーマの全体の概要であって、針先の事実ではない。私の好奇心は、学者のように〇〇島の△△村X地区に何年も住み込んで調査をすることではない。1980年代にタイを定点観測地に選んだのには、交通や言語やビザ事情などを考えたうえでの選択だった。そして、タイを定点観測の基地にして、研究テーマを好奇心のままに世界に広げようと思った。△△村の研究をしていれば、世界で一番△△村に詳しい人になれるかもしれないが、悪くすると△△村のこと以外まったく知らない人になってしまうかもしれない。私は△△村研究の世界的権威になるよりよりも、「薄っぺら」と批判されようが、世界のいろいろな事柄を知りたい。研究テーマも地域も限定したくなかった。だから、こうした行動は、学者の研究ではなく、ライターの道楽である。

 さて、『アジア稲作文化の旅』だ。この本にも、インドのパーボイルドライスについて詳しい記述が載っている。著者はビハール州のパーボイルドライス工場で、加工法を見学している。籾を2,3日水につけ、蒸気を吹き付けて蒸し、乾燥して、精米するという工程で、小規模にやるなら籾を蒸さずにゆでる。こうした加工法の話の後、私がもっとも知りたかった、「なぜ、ゆでるのか?」という話に入る。

 渡部は、まず中尾佐助の論文「農業起源論」(1967)をとりあげる。中尾佐助はパーボイルドライスにする理由を「自然に脱粒してしまいやすいインディカの稲の場合に、それを防ぐために未熟刈りしたことから、この籾の処理方法が発想されたと述べている」と、紹介している。『世界の食文化 インド』も、この説を採用しているのだが、渡部は立場を変えて、インドの農民の考えを2点紹介している。

1、精米時に、砕け米ができないこと。細長い長粒種の場合は有効な加工法だ

2、貯蔵中のコメの害虫防止。籾の中に入っている害虫の卵や幼虫を殺すのに有効だ。

 おそらく、昔のコメは中尾が書いているように、脱粒しやすかったのだろうが、今は渡部が挙げた2点が主な理由らしい。

 インドでは現在どのくらいのパーボイルド・ライスが生産されているのか調べきれなかったが、1987年出版の『アジア稲作文化の旅』では、「インドでは籾の総生産量の半分近くがパーボイルド・ライスとして加工されているという」と書いている。

 パーボイルド・ライスという加工法はインド亜大陸では昔から現在まで広く行なわれているが、インド亜大陸を離れると、とたんに姿を消す。しかし、意外なことに、昔の朝鮮にはあり、韓国ではまだ市場で売っているらしい。その話をアジア雑語林の445話(2012-09-22)ですでに書いている。このテーマで引き続き調査をしたいのだが、「韓国 パーボイルドライス」で検索すると、我がアジア雑語林が出てくるというほど、情報が少ない。実は、私が知りたい項目をパソコンの検索欄に書き込むと、私の駄文が出てくる頻度が高い。つまり、私が知りたいことを書いているのは、私以外にそれほどいないということだ。