1470話『食べ歩くインド』読書ノート 第18回

 

 

 P117カダムバットというライスボール・・たこ焼きの話の次は、おにぎりだ。南インドクーグル料理の代表的料理におにぎりがあるそうだ。117ページに丸めたメシの写真がある。大きさはわからないが、ピンポン玉くらいの大きさではないかと想像する。「日本のおにぎりよりももっと硬く握られている」と解説されている。このクーグル料理とはまったく関係ないと思うが、マレーシアにもこういうおにぎりがある。

 昨今、日本でも話題になっている「シンガポール・チキン・ライス」とか「海南鶏飯」、「カーオ・マン・カイ」などいくつもの名で呼ばれている東南アジアの料理だ。丸のままゆでた鶏を、そのゆで汁で炊いた飯にのせた料理だ。料理の姿は、シンガポールもマレーシアでもタイでもほとんど変わらないのだが、マレーシアのマラッカではかなり違う。

 「Chicken Rice Ball」などの看板がある店で食べられる。中国ではもち米の飯を握ったおにぎりがあることは知っているが、小さなライスボールはマラッカ以外知らない。そのいきさつを調べないといけないなと思いつつ食べただけで、そのままにしている。はたして、南インドの料理と何か関係があるのだろうか。日本料理でも、こういう小さなおにぎりを出すことはあるが、懐石料理とマラッカのチキンライスとは関係ないだろう。

 P125グルメマニアやフードブロガー・・『食べ歩くインド』のような本は、インド亜大陸の人は書かないし、書けない。その理由を書き出してみる。

 1、インド亜大陸を広く深く旅して、食べ歩くという発想は、インド人にはそもそもないと勝手に決めつける。酔狂、道楽、物好きということはインド人でもやる人はいるだろうが、全域踏破というようなことはしない(はずだ)。どういう目的であれ、役人でも研究者でもない者が、食べ物を巡ってインド亜大陸全域踏破など考えないものだ。インドの地域差といったことなら、インド人よりも外国人旅行者の方が詳しいことがある。

 2、インドには食のタブーが多くある。イスラム教徒やヒンドゥー教徒たちは、「何でも食べてみる」という行動は許されない。だから、「何でも」ができるのはキリスト教徒や仏教徒ということになるのだが、食のタブーがないからと言って、何でも食べてみようと思うかどうかは別問題だ。インドの食べ歩き動画をいくつも見たが、ブロガーといった人が食べ歩くのは、映像的にすぐれた店か料理か自分に金銭的利益があるか、あるいは自分の評価を高める権威的な店に行くということもあるだろう。インド人ブロガーの態度は、「そこに行けば、どういう料理があるのだろう。とにかく食べてみたい」という好奇心で行動する小林さんとは、根本的に違う。『食べ歩くインド』は、世に多くある「美味探求食べ歩き本」ではない。

 3、価値観の問題もある。食に対して、インド人は保守的だと思う。ということは、普段自分が食べている料理が世界一うまいと考えている人たちだ。だから、わざわざ旅をして、「まずいに決まっている料理を食べる」ことなんかする気はないのだ。私は「外国人特権」という言葉を時々使う。外国人なら、民族の壁を越えて、どこにでも出入りできるという意味だ。外国人が入れる場所なら、どういう宗教施設でも、そういう宗教料理であれ、口にすることができる。民族も宗教も地域の差も超えて、どこにでも出没できるが、インド人には難しい。この点では、外国人であり、食文化研究については雑食の日本人が特に優れている。

 『食べ歩くインド』は、雑食と好奇心の日本人の手によって初めて完成した本である。日本語の本だということは、日本人には幸運だが、もし英語版なら、発行部数は100倍にもなったかもしれない。とは思うものの、ロンリープラネットの”World Food”シリーズは優れた内容でありながら、増刷されていない。あまり売れなかったようだ。やはり、「前川がいいという本は売れない」という法則どおりか。『食べ歩くインド』は、きっと例外だろう(と、思いたい)。