1611話 本で床はまだ抜けないが その19

 重い本

 

 ビンボーで美術に興味がないから、『豪華絢爛 日本と世界の美術大全集』といった高くて大きくて重くてじゃまな本は1冊もない。しかし、単純に、重い本はある。そこで、ヒマつぶしのお遊びで、ウチの重い本トップ20を調べてみた。取り出すのが簡単な本だけが調査対象だから、箱に入れて深山(部屋の隅ということ)で眠っている本は相手にしない。例えば、『タイムライフ 世界の料理』シリーズは函入りの大型書籍だから重いのは明らかだが、重さを測るためだけに物置きから取り出す気はない。以前書いたことだが、本は箱に入れた時点で「ないも同然」になるとつくづく思う。なお、本の重量測定に使ったウチの体重計は、200グラム刻みしか表示しないので正確さはない。

 遊びついでだから、アマゾンなどネット書店に出品があれば、売値の最低価格(送料別)を書いておこう(8月4日現在)。

1、『昭和史全記録』(毎日新聞社、1989)・・・3800g 452円

2、『世界有用植物事典』(堀田満ほか、平凡社、1989)・・・3200g 1万4000円

3、『日本交通公社七十年史』(財団法人日本交通公社、1982)・・・3000g 7万5600円

4、“Chronicle of Thailand”(Wissanu krea-Ngam編、Didier Millet、2009)・・・3000g 6593円

5、『タイ日辞典』(冨田竹次郎、養徳社、1987)・・・2800g 2万8941円

6、”Chronicle of Malaysia”(Philip Mathews編、Didier Millet、2007)・・・2600g 4705円

7、“Palaces of Bangkok Royal Residences of the Chakri Dynasty”(Naengnoi Suksri & Michael Freeman、Asia Books, 1996)・・・ 2400g 4933円

8、『中国食文化事典』(中山時子監修、角川書店、1988)・・・2400g 1万3662円

9、“Thai House”(Phinyo Suwankhiriほか、The Mutual Fund Public Company Limted、1995)・・・2200g

10、“Directory of Thai Folk Handicrafts  Book of Illustrated Information”(The Industrial Finance Corporation of Thailand、1989)・・・2000g

11、”Isan-Thai-English Dictionary”(Preecha Phinthong, Darnsutha Press、1989)・・・2000g

12、『タイ日大辞典』(冨田竹次郎編、発行:日本タイクラブ、発売:めこん1997)・・・1800g 3万9262円

13、『地球生活記』(小松義夫、福音館書店、1999)・・・1800g 2313円

14、“Twentieth Century Impressions of Siam”(Arnord Wright、Oliver T. Breakspear,  White Lotus、1994 1908年版の復刻)・・・1600g  9040円

15、“Kretek”(Mark Hanusz、Equinox Publishing、2000)・・・1600g 6579円 クレテックはクローブ入りのタバコのこと。その昔は、のどの薬だと考えられていたという。プラムディヤ・アナンタ・トゥールのエッセイが収録されているのがうれしい。

16、“Freshwater Fishes of Western Indonesia and Sulawesi”(Maurice Kottelatほか、Periplus Editions、1993)・・・1600g

17、『もっと遠く』(開高健朝日新聞社、1981)・・・1600g 1100円 『もっと広く』も同じ(1900円)。

18、『オールフォト食材図鑑』(全国調理師養成施設協会編、調理栄養教育公社、1996)・・・1400g 1円(!)

19、“Bangkok By Design”(Allen W. Hopkins ,john Hoskins、Post Books、1995)・・・1400g 1万0677円

20,『インドネシア語辞典』(末永晃、大学書林、1991)・・・1400g  2000円

 こうした本を書棚から取り出して重量を計測し、元の書棚に戻したら、本棚の一番上にインド料理やスパイス事典など、重そうな本がいくらでも見つかった。1000g超が基準なら20冊以上ありそうだが、見えないフリをして、この重量測定遊びを終わりにしようとしのだが、すぐ目の前の本棚の最下段に重そうな本があるので、追加測定をする。

七つの海で一世紀 日本郵船創業一〇〇周年記念船舶写真集』(日本郵船、非売品、1985)・・・1800g、

Thai Style”(Luca Invernizzi Tettoni・William Warren、Asia Books、1988)・・1400g 1399円

南十字星 シンガポール日本人社会の歩み』(シンガポール日本人会、非売品、1978)・・1400g

京タケノコと鍛冶文化』(長岡京市教育委員会、非売品、2000)・・・1200g

キャンティの30年』(川添光郎発行、非売品、1990)・・・1000g

 タイで暮らしていた1990年代、船便でも送料が急激に値上がりしたため、帰国のちょっと前に買った重い本は、成田まで手荷物で持ち帰り、空港から宅配便にしようと思っていたが、いざ空港の宅配便カウンター前に立つと、旅客の弱みに付け込んで、「ええ!」と驚くほど料金が高いので、指がちぎれるような恐怖を感じつつ、重い本を手にして自宅まで持ち帰った。

 送料にカネを使うくらいなら、その分、本を買った方がいいと考える男である。

 こういう重い本とアフリカ音楽のCDを専用の棚に置いたら、棚板が割れた。5~6冊で10キロじゃあ、割れるよな。古本屋では、辞書や社史などを除くと、大きく重い本は、概して安い。書籍も、重厚長大は時代遅れなのだ。

 TOTOの社史『東陶機器七十年史』(1988)は実に面白い内容で、ダイヤモンド社が制作・編集にあたっているので、優良な市販本のレベルに達している。436ページのこの本を買っていれば「重い本」ランキングに入っただろうが、手に入らなかったので、当時東京乃木坂にあった東陶図書館(TOTO図書館だったかもしれない)に通い、コピーを取った。現在は『TOTO百年史』(2018)として800ページを超える著作になり、しかもデジタル化されて、誰でも自由に自宅で読めるようになった。すばらしいことだ。

 

 

 

1610話 本で床はまだ抜けないが その18

 マンガ 4

 

 6月にコロナ・ワクチンの接種予約を入れたら、「最短でも8月以降」といわれ、本日やっと1回目の接種終了。まったく痛くなかったが、夜半に左腕が少々重くなった。2回目は8月下旬になり、その効果が出てくる9月になれば、神保町散歩ができるようになるだろうが、1日でも早く古本屋巡りをしたいという欲求はあまりない。アマゾンで買って、まだ読んでいない本が10冊以上あるからだ。だから、巡りたいのは古本屋ではなく、ディスク・ユニオンだ。ジャズのCDを探したい。それはともかく、マンガの話は今回が最終回だ。

 

 マンガは時々読んでいても、今までマンガに関する文章をほとんど書いてこなかったのに、ここ数日マンガのことを書いていたら、忘れていた記憶が少しずつ蘇ってきた。

 矢口高雄の本が置いてある本棚に、かつて滝田ゆうのマンガが何冊もあったことを思い出した。滝田ゆうのやわらかい線が好きで、何冊も買ったのに、1冊も手元にないのは、滝田ゆうが好きだという友人に全部あげたからだ。『滝田ゆう漫画館』全3巻(筑摩書房)があったなあ。『野坂昭如+滝田ゆう怨歌劇場』や『寺島町奇譚』や『落語劇場』などもあったのに、月日が流れて、すっかり忘れていた。アマゾンで滝田ゆう作品リストを見ていたら、知らない本があり、読みたくなった。滝田とは関係ないのに、商品リストのなかに関連図書ということだろうが、『深夜食堂』(安倍夜郎)が入っていた。うん、確かに雰囲気は似ている。小林亜星著・滝田ゆう画『あざみ白書』(サンケイ出版、1980)という本も知らなかった。多分、最近、著者が亡くなって、古書価格を値上げしたのだと思う。

 だんだん思い出してきた。一時、マンガを積極的に買い集めていた時代があった。東南アジアを舞台にした小説をできる限り買い集めて読み、しかし大した作品がないのでがっかりした。ではマンガならどうかと思い、ブックオフの棚巡りをして、探して読んだ。私がパソコンを買う前の話なので、ネットで「アジアを舞台にしたマンガ」を調べることもできず、ブックオフを巡るしかなく、多分十数冊買ったと思うが、読まなくてもいい本だった。

 東南アジアを舞台に日本人が書いた小説はほとんどつまらないが、井村文化事業社の東南アジア文学シリーズでわかるように、東南アジアの人が書いた小説はほとんどおもしろい。マンガもそれと同じで、マレーシアのマンガ家ラット(Lat)の本を買い集めるようになった。

 1984年に、ラットのマンガを翻訳した『カンポンのガキ大将』(荻島早苗、末吉美栄子訳、晶文社)が出たが、多分、その少し前にマレーシアで、英語版の”Kampung Boy”と、その続編の”Town Boy”を買って、すでに読んでいた。ラットの自伝的マンガで、カンポン(村)で生まれ育った少年が、街にでて都市の生活に出会うという二部作だ。

 この2冊はマンガとしておもしろく、しかもマレーシア人の生活や歴史がわかるから興味深い。マレーシアは元イギリスの植民地で、英語教育も日本よりはるかに高いレベルで実施されているから、英米の音楽や映画に興味を持った少年少女は、英語の雑誌を熟読して、情報を得ていた。同時代の、日本の少年少女よりもはるかに情報通だったことがわかる。この文章を書いている今気がついたのだが、ラットのマンガの雰囲気は滝田ゆうに、ちょっと似ている。

 ラットのマンガがおもしろくて、マレーシアに行くたびに本屋に行き、新刊を買った。マレーシアで読むと、風刺漫画の裏の意味を教えてもらえるし、マレー語の勉強にもなった。1990年代末にマレーシアに行ったとき、「もう、ラットの本は出ませんね」と書店主が言っていたとおり、新刊は見つからなかったから、まだ買っていなかった本を買った。今、書棚でラット本を数えたら23冊ある。これで全部か。昔と違って今はインターネットで調べることができる。ウィキペディアの情報では、21世紀に入って2冊出ているらしい。アマゾンで調べると、1冊は確認できて、日本でも買えるが7146円プラス送料だ。買わないな、きっと。

 幸せにも、現在は東京外国語大学『カンポンボーイ』と『タウンボーイ』の2冊を翻訳出版している。マレーシアに興味のある人は、どうぞ。

 晶文社版の『カンポンのガキ大将』の翻訳者のふたりは、「宝島スーパーガイド アジア」シリーズの『シンガポール・マレーシア』の主要執筆者でもある。それ以来名前を聞かなかったのだが、つい先日、マレーシアを扱うテレビ番組に「コーディネーターとして荻島早苗さんの名前を見つけた。あの時代から、日本語教師としてマレーシアで生活を続けてきたようだ。

 

 

1609話 本で床はまだ抜けないが その17

 マンガ 3

 

 録画してあった映画「喜劇 女は男のふるさとヨ」(森崎東 1971)を見た。森繁久彌主演ということで見たのだが、映画冒頭1分が、1971年の新宿南口や歌舞伎町の都電線路跡(現在の四季の路)が現れて、その風景は私がうろつき始めたころの新宿だったので、画像を戻して3度見た。映画は歴史の保存庫である。音楽は山本直純で、なんと「男はつらいよ」とほぼ同じメロディーが流れる・・・という話はともかく、マンガの話の続きである。

 

 矢口高雄の『蛍雪時代』が優れているのは、たんなる思い出話だけを描いたのではなく、取材もしているのだ。「あの頃の話」を、マンガ家になった矢口が各地を訪ね歩き記憶を補正し、生活誌にしている。次に紹介する修学旅行の話でも、中学生時代に泊まった東大近くの宿を再訪して、取材している。「あの頃」と「今」を行き来する構成だ。

 このマンガ全体でももっとも記憶に残っているのは、この修学旅行の話だ。1950年代なかばの秋田の農村では、中学生も重要な家事労働者だから学校に行く余裕もない生徒がいた。修学旅行など到底無理という生徒もいた。そこで、矢口の学校では、生徒が山仕事など肉体労働をしてカネを稼ぎ、修学旅行費用の足しにしたのだという。前年までは、仙台・松島2泊3日という旅行だったが、「東京を見せたい」という教師の熱意で、「東京・仙台・松島 4泊5日の旅」になった。秋田の農村で暮らす中学生にとって、東京はいずれ就職するかもしれない土地であり、同時にあの時代だと一生縁のない都会である可能性もあった。

 秋田の修学旅行生がコメを持って出かけたというエピソードが特に印象に残っている。上の姉が小学校の修学旅行に参加した1960年には、「お米を持って行った」というので、「まだ食糧難時代!」と笑いあったのだが、その2年後の、下の姉の修学旅行ではコメを持って行っていない。もちろん、私もそんな経験はない。私より4歳も年下なのに、コメ持参の修学旅行をよく知っているのが、旅館の息子である天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんである。きっと蔵前さんは忘れているだろうが、かつて、私のここのコラムに、修学旅行とコメの話をコメントしてくれたことがあった。

 誰かのコラムに、自分たちが持参したコメは翌日泊まる生徒用なので、前日泊まった学校の生徒たちがひどいコメを持ってきていると、コメどころの育ちの生徒は文句を言うというという文章があったことも思い出した。

 『蛍雪時代』には、矢口が後から知ったという修学旅行裏話が描いてある。引率の教師がかなりの量の米を東京に運び、飛び込みで飲食店を訪ね歩き、違法行為は承知で闇米を売ったのだという。そうして作った資金が、神宮球場六大学野球、立教対明治戦の入場券になった。その年、立教に長嶋茂雄が入学しているが、秋田の中学生は長嶋の姿は見ていない。

蛍雪時代』は中学時代を描いた作品だが、高校時代を描いた作品があるのかどうか知らない。高校卒業後12年間務めた銀行員時代を描いたのが『9で割れ!!』全4巻(講談社)だ。サラリーマン生活のなかで、マンガ家になる夢を実現させていく過程を描いた。

 マンガ家の自伝はいくつか読んでいる。もちろん『まんが道』(藤子不二雄)は、だいぶ前におもしろく読んだ。いわゆる「トキワ荘」物は、何冊も読んでいる。水木しげる作品は、『コミック昭和史』や軍隊体験シリーズなども読んだ。あとは、手塚治虫ほか何人かいると思うが、思い出せない。

 読みたいなと思ってはいるが、不要不急で後回しになっているのが、矢口の『おらが村』(ヤマケイ文庫)だ。これも、農村生活誌として、おもしろそうだ。神田三省堂のヤマケイ文庫の棚で、買おうかどうか、いつも悩む。

 アマゾンで書名などを確認しながらこの文章を書いているが、今机に置いている講談社文庫版『蛍雪時代』の5巻セットが、7980~1万7164円もしているが、手元の5巻をブックオフに持ち込めば、1冊5円か10円か。あるいは、「古いので買い取れませんが、どうします?」と言って、客が「じゃあ、そちらで処分してください」というのを待つか?

 ここまで書いて、突然、『食客』(ホ・ヨンマン)を思い出した。韓国の食文化資料として買ったのだが、なかなか面白かった。韓国のコミックは、少女マンガならある程度日本でも売れるのだろうが、ファンタジーもロマンスもない食文化マンガでは5巻まで出ただけで上出来というべきだろう。幸か不幸か、このマンガは今でも安く買える。『食客』に関するコラムは、すでに444話で書いている。

 

 

1608話 本で床はまだ抜けないが その16

 マンガ 2

 

 『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰)は、かねがね気になっていて、ブックオフで安く売っていたので、結果的に全巻買って読んだ。いまさら言うまでもないが、傑作だ。若手の医者たちを取り上げたテレビ番組で、このマンガを読んで医者を志したという人が何人かいた。プロサッカー選手にとっての、「キャプテン翼」か。名作・傑作ではあるが、置き場所がなく、読んですぐ、ほかの本と一緒に、ブックオフに売った。

 佐藤秀峰は『海猿』やこの『ブラックジャックによろしく』などを描いた有名漫画家なのだが、マンガは稼げないという実態を書いたのが『漫画貧乏』で、自分の収支を隠さずに書いている。小説家は一人で仕事ができるが、マンガ家は仕事場とアシスタントが必要で、収入が多くても経費も多いのだと嘆いているのがこの本だ。

 『岳』(石塚真一)もよかった。これは1巻から順に読んだのではなく、手に入る巻から買い、結局全18巻読んだ。そのうち何冊かは、今も捨てられずに床に積んである。2巻分が1冊になっている弁当箱マンガ、通称コンビニコミックになっているものをブックオフで買い、ヨーロッパ旅行に持って行ったことがある。機内でずっと活字本を読んでいるのは目につらいお年頃になったので、ウォークマンに入れた落語とマンガというのが、退屈になりがちな機内での楽しい過ごし方になっている。この手のマンガは、読み終えたら気軽に捨てられるのがいい。コンビニコミックは、たぶん十数冊は外国に運んだなあ。

 『大使閣下の料理人』(原作:西村ミツル、漫画:かわすみひろし)は、食文化の資料として手にし、結局全25巻買った。原作者は元大使料理人で、そのエッセイ『外交官の舌と胃袋――大使料理人がみた食欲・権力欲』(西村ミツル講談社、2002)も読んだ。「大使館の料理人」というのは、実はいないということがわかった。大使が自分のポケットマネーで雇う料理人という資格だから、大使付き料理人ということらしい。ポケットマネーといっても、巨額の手当から料理人の給料を出しているのだが、基本的には大使家族の食事を作るというお抱え料理人だということらしい。ちなみに、ロンドンの日本大使館に勤務したことがある人の話では、「日本大使館職員として恥ずかしくない生活をするように」と、かなりの額の手当が支給され、そのカネで、恥ずかしくない車を買ったりしたという。

 このエッセイでもっとも興味深かったのは、在外日本大使館の大使料理人の半分はタイ人だということだ。勤務地が欧米の、特にフランスやイタリアなどなら、生活は楽だし、料理人としてのハクがつくのだが、アジアやアフリカや中南米だと、日々の生活に苦労するだけで、料理人として得るものはなにもないと考える者が多く、応募者がいないのだという。だから、辻調理師学校とバンコクの日本料理店が協力して、大使専属料理人を養成して、タイ人料理人を世界の日本大使館に派遣しているのだという。日本大使主催のパーティーなら、絶対に日本料理ができないとまずいのだ。

 ここに書き出したマンガほどの知名度はないが、『蛍雪時代 ボクの中学生時代』(矢口高雄)全5巻は、1950年代の秋田の生活誌や中学生の記録として読んだ。矢口の作品といえば、『釣りキチ三平』などが有名だが、私はやはりノンフィクションを読みたかった。この話は長くなるので、次回に。

 

 

1607話 本で床はまだ抜けないが その15

 マンガ 1

 

 マンガをあまり買っていない。少年時代からそうだ。理由は簡単、30分で読み終えるマンガを次々に買ってもらえる財力がなかったからだ。私は昔の幼稚園児だったから、小学校入学以前は読み書きができなかった。それでも、近所の友人が持っているマンガを読むふりをしたのは覚えている。小学生になって、『赤胴鈴之助』を買ってもらったのがうれしくて、そのマンガを膝にのせて撮った写真が残っている。

 小学生時代はマンガ雑誌が月刊誌から週刊誌に変わる時代だった。1950年前後に創刊された「少年画報」、「少年」「少年クラブ」「冒険王」は、別冊ふろくなども魅力で、年末か正月に1冊だけ買ってくれた。私は「少年画報」が好きだったが、ほんの数冊読んだだけだ。クラスにはマンガをたっぷり買ってもらえる家庭の子がいて、貸してもらいたい子供たちからちやほやされていたが、私はコビを売って近づき、「ねえ、貸して、お願い」と、ニコニコしながら仲良しのふりをする屈辱に耐えきれず、本屋で立ち読みしておばさんに怒られ、しかたなく、その当時まだ残っていた貸本屋で、時々借りて読んでいた。1泊2日で10円か20円だっただろうか。よく借りていたのが『忍者武芸帳』(白土三平)だった。その貸本屋は、数年の営業で文房具店に変わった。かつては団地の中に貸本屋があったのだ。

 中学生になると、神田神保町に通うようになり、マンガは読まなくなった。ふたたびマンガ雑誌を手にするようになるのは、建設作業員の収入が入るようになった20歳前後だ。「漫画アクション」や「ビッグコミックオリジナル」などを買って読むようになるが、マンガと同じくらいコラムが好きだった。「漫画アクション」で、呉智英関川夏央南伸坊阿奈井文彦などの名を知る。幸せにも、20代なかばになって、ちょっとした縁で関川さんと何度か会うことになった。世間的には、まだ「まんが原作者」としてしか知られていないころだ。そのころから、ライターや小説家や学者と出会うのだが、マンガ家と話をしたのは、永島慎二だけだ。20代末だった。

 マンガ少年にならなかった理由は、ひとつには財力の問題だ。少年時代によくマンガを読んでいた少年は、おぼっちゃまか、本屋やラーメン屋か床屋の息子たちだろう。私はそういう境遇の子供ではなかったから、マンガに溺する日々はなかった。マンガをそれほど多く読まなかったもうひとつの理由は、小説をあまり読まない理由と似ているかもしれない。私はノンフィクションが好きだから、フィクション性が高いと読む気がしなくなるのだ。だから、「そんな設定、あるわけないじゃない」と言いたくなる内容だと、初めから読む気がしない。だからといって、なんということもない学園モノも読む気がしない。とはいいつつ、もしもあの頃、親がいくらでもマンガを買ってくれたら、毎日マンガに身を沈めたと思う。

 マンガの困ったところは、全20巻とか35巻とか長いものが多く、全巻買うとかなりの出費になることがひとつ、もうひとつは置き場所に困るということだ。この「本で床はまだ抜けないが」というコラムの初回、ライターの西牟田氏は執筆に必要な資料を「毎年100冊以上も買うようになった」と書いている。「そんなに多く」といいたいのだろうが、マンガをよく買う人なら、100冊なんか大した量ではないはずだ。マンガ喫茶などで読む人は、マンガが部屋を占領するということにはならないが、マンガは買って読むという人は、適宜売却を考えないと、たちまち居場所を失う。

 『美味しんぼ』は何冊も買っているが、資料として買い、「この、出来損ないめ!」と思ったことを、この「アジア雑語林」に書いて、すぐ捨てた。どういう文章を書いたか知りたかったら、「アジア雑語林」のページの右にある「検索欄」に「美味しんぼ」と記入すれば、10件以上の書き込みが見つかる。

 マンガの話は長くなりそうなので、何回か続けることにする。

 

 

1606話 本で床はまだ抜けないが その14

 関連読書

 

 こんなに長くなるとは思わなかったので、見出しタイトルをつけなかったのだが、内容がひと目でわかるように、今回からタイトルをつける。

 本の情報は、どうやって仕入れたのか。「書店で見かけて」というのが、かつては多かった。

 本屋で見かけた本を、買って読む。おもしろいので、その著者の本や関連書を探す。関連書の情報源は、読んだ本の著者紹介に出ている著作リストや、その本の巻末広告が有用な情報源だ。あるいは、その本の中で紹介している本や、事柄に関する本を探す。「本屋で本を買う」が、コロナ禍ではネット書店で買うとなったが、この方法は十代から現在に至るまで続いている。

 現在は雑誌を読まないので、雑誌の書評やコラムなども当然読んでいない。かつては、「本の雑誌」を定期購読していたが、小説紹介雑誌に近いので、しだいに読まなくなった。新聞の読書欄で取り上げている本で、「読みたいなあ」と思う本は年に数冊ほどで、実際に買うのは1冊あるかどうかだ。

 かつて、「これから出る本」という無料の冊子があったと書いて、念のために調べてみたら、まだ発行しているようだが、新刊書店にあまり行かなくなってから、目にすることはなくなっていた。新刊書店にまったく行かないわけではない。コロナ禍の今は別だが、それ以前は神保町に行けば、新刊書店では三省堂東京堂には必ず行く。東京堂書店の新刊コーナーと、食関連の文庫本コーナーはチェックするが、文庫や新書を除けば、新刊書を買うことは少なくなった。「これから出る本」を詳細にチェックして、手帳に購入予定リストを作ることはもうなくなった。自分が読みたい本を、自分で探すようになったからだ。関心分野が狭くなったが、自分で深く掘り下げるようになったからだ。

 学者が書いた本なら、脚注や巻末に参考文献が出ている。何かの調べものをしていたら、まったく知らない人物か、名前は知っているが経歴をよく知らない人物がでてきて、もっと知りたくなったりすると、すぐにアマゾンでチェックする。だから、本を読んでいるときは、アマゾンの画面を出していることが多い。

 卑近な例をふたつ。

 1960年代の高校生活を書いた「カラスの十代」連載中、同じ時代の大学生活を知りたくなって、『あのころ、早稲田で』(中野翠、文春文庫)を読んだ。読書体験や関心分野に、マルクスエンゲルス吉本隆明埴谷雄高倉橋由美子ゴダール大島渚、「ガロ」といった具合に、「『頭いいだろ』と思わせたい大学生が選びがちな」60年代のイカニモな名前が出てくる。ただ、著者が大好きな音楽が、タイガースとテンプターズというところが、意外な取り合わせだ。本と違って、音楽の知識と趣味で、「どーだ、すごいだろ!」と自慢したり、「知ったかぶり」をする志向はなかったのだろう。

 関連読書のもうひとつの例は、1589話「忘れられた人」で、堀口大學の翻訳を紹介したことがきっかけだ。この詩人の名は知っているが、経歴はまったく知らない。ネットで調べていると、1910年代から外国生活をしていたことがわかり、異文化体験の資料として堀口の伝記のようなものを探したら、聞き書き書があることがわかった。1892(明治25)年生まれで、19世紀の人だから「昔の人」だと思っていたのだが、1981(昭和56)年没だから、現代の人が聞き取りができた。聞き書きをしたのは、関容子。『役者は勘九郎――中村屋三代』など歌舞伎役者の本で、聞き書きの技術の見事さに驚嘆した記憶がある。その人が、堀口大學と対した本なら、読まないといけない。その本、『日本の鶯 堀口大學聞書き』は、角川書店講談社から出ているが、古書店で高額になり、岩波現代文庫に入ったものの、やはり高い(もともとの定価も高いが)。アマゾンで比較的安い文庫を見つけたので、注文したというわけだ。

 このように、おもしろそうな本を芋づる式に探っていくと、書店でおもしろそうな本を探すよりも、歩留まりがいい。こうして、毎日本が増えていく。

 私には、新聞の読書欄は本を買うにはまったく役に立たないが、書籍広告は重宝している。特に文庫と新書は出版点数が多く、しかし、ネットでは調べにくく、新聞の広告をチェックするのが手っ取り早い。

 『プロレス少女伝説』など魅力的は著作を世に出した井田真木子(1956~2001)は、私にとって本のすばらしい紹介者だったという話は320話に書いた。そういう人が、近くにいて欲しい。

 

  

1605話 本で床はまだ抜けないが その13

 

 30年近く前の話だ。半年ぶりにタイから日本に戻ったら、面倒な事が起きていた。姉の話によれば、長年空き家になっていた隣家がついに売却することになり、その隣りの住民である我が家に、「買いませんか、安くしますよ」と不動産屋がセールスに来たという。すると、なんと、母が「解体費用分を安くすれば、買う」などと言い出し、不動産屋と値引き交渉を始めたところに、私が帰国したというわけだ。「なぜ、隣りの土地を買おうと思うのか」と母に聞くと、「日当たりが良くなる」という。たしかに、南面の古家が無くなれば、日当たりは良くなるが、そのために大金を払うか? 私が住んでいるあたりの土地は、東京23区と比べれば笑えるほどに安いが、それでも40坪を超える土地だ。「うまい寿司でも食べるか」という値段ではない。

 母は、長年貯めたカネを持っているから、買収資金の心配はないし、その土地を買ったからと言って、私になにか迷惑がかかるわけではない。母の真意はわからないが、家庭菜園を作りたかったのか、あるいは、土地はいずれ値上がりするとまだ信じていて、今後何かあれば売って資金にするとでも考えていたのだろうか。

 「でも、土地なんかいらないでしょ」といえば、「そこに書庫でも建てればいいじゃない」などという。「書庫なんかいらない」といって、土地買収計画を白紙に戻させた。それから30年近くたっても、土地の値段は昔と変わらない。

 本をある程度持っている者の夢は、買った本の背が見えるように棚に並べて置ける家に住むことだ。書棚の本を、前後2段に詰め込むのではなく、1列に並べて、収納する。そういう書棚にあこがれる。フィギアとかミニカーとか、書画骨董のコレクターなら、自宅を美術館のようにリフォームし、収蔵品をガラスケースに入れて展示する(そして、自慢する)のが夢だろうが、本を多く持っている者は、ごく一部の豪華・高価本収集家以外、本を他人に見せびらかす趣味はあまりない(あくまで、「あまりない」です)。コレクターじゃないからだ。立花隆の書斎でもわかるように、実用的な書棚は美しく整っているわけではない。

 私も、もちろん、持っている本の背表紙は全部見えるように収納したいという夢はある。本を床に置きたくない。段ボール箱に入れたままにしておきたくない。

 書庫は、建て方によって数十万円から1000万円以上の幅があるが、そんなカネがあるなら、旅行に使いたいと思った。本が増えすぎて困ったら、処分すればいいのだ。

 土地を買って書庫を建てる計画は、即座に拒否したが、別の書庫計画はある。もちろん、リフォームの空想遊びであって、実現させる気はまったくない。

 今、2本の書棚と物置きになっている四畳半の部屋を改装するというプランだ。床を取ると、60センチほど下が地面だ。コンクリートを敷き詰めたベタ基礎ではないから、土を40センチほど掘り下げて、コンクリートの床を張る。天井も取り払って上下の空間を広くして、2段構造の書庫にする

 司馬遼太郎記念館の設計は、あの安藤忠雄だから、本をオブジェとして扱っている。使うための書棚ではなく、見せるためだ。記念館の飾り棚だからそれでいいのだろうが、まったく実用的ではない。規模を小さくて、こういう書棚を自宅に作りたがる人がいるが、上の方の本は見えないし、取り出しにくい。蔵書数を自慢するだけの書棚だ。私は使うための書棚を考えたので、上下2段にする構造を考えたのだ。批判を覚悟で言うが、建築家が作った自慢の図書館や書斎なんか、オブジェでしかない。

 いくつかの部屋に分散して置いてある本を2段式のその書庫に集めると、棚はすぐさま全部ふさがり、また本が増えるのだ。でも、と、リフォームの夢から覚める。本を処分すれば、無駄な書庫など作らなくて済むのだ。ヤドカリは、家が小さくなると住み替えるのだが、ビンボーライターは、住まいに合わせた蔵書数にとどめておいた方がいい。じゃまなら、処分すればいい。家族を追い出して蔵書を守る人の感情を理解できない。