2003年最初の電話は、タイのスリン県からだった。
「いま、スリンにいるんだよ。ダーキーの葬式をやってるところなんだ」
電話口で叫ぶ友人の声の背後から、カントゥルムの音楽が響いていた。供養のコンサートなのだろうか。
タイのカンボジア系住民の音楽であるカントゥルムの第一人者がダーキーだ。そのダーキーが急死した。ガンだったそうだ。半年ほど前から体調がおもわしく なかったが、それでもコンサート活動を続けていたが、12月31日に倒れて病院に運ばれ、翌日の1月1日に亡くなったそうだ。前日まで歌っていた。正確な 生年月日を知らないが、33か34歳のはずだ。あまりに、若い。ダーキーの死は、彼の肉体の死滅だけに限らず、カントゥルムという音楽ジャンルがまた元の 伝統音楽に戻ってしまうという悲劇でもある。
もう過去形で語らなければいけないのが哀しいが、彼の音楽がもっとも迫力を持っていたのは、80年代後半から90年代なかばころまでだろう。カンボジア の伝統音楽カントゥルムに電気楽器を入れた「カントゥルム・ロック」でデビューしたのは84年。彼の唸るような歌と、中国の二胡に似たソーという楽器が空 気を切り裂いて合体した。「迫力」ということばが似合わないタイの音楽界のなかで、ダーキーのカントゥルムは異彩を放っていた。伝統音楽にロックを取り入 れて、ポップミュージックにした。「保存」されてきた音楽に、現代の命を吹き込んだのがダーキーだった。90年代なかば以降は、こうした迫力あるカントゥ ルムをどういうわけかあまりやらなくなり、さほど魅力のないルークトゥンを歌っていた。村のコンサートではどうだったかわからないが、テープやCDで聞く 限り、ビデオやVCDで見る限り、彼はルークトゥン歌手にかなり変身していた。日本人にわかるように言えば、喜納昌吉が堀内孝雄のような歌をうたい始めた ようなものだ。
私が初めてダーキーの歌を聴いたのは90年代初めだった。バンコクでコンサートを開いたときで、カンボジア系タイ人だけの音楽という枠から脱出しようと していた頃だ。のちにルークトゥンに路線変更したからなのか、しだいに全国区の歌手になり、先日入手したコンサートライブのVCDにも登場していた。友人 がダーキーの死を知ったのが、テレビニュースだったというから、その地位まで登りつめたということらしい。
彼の写真は、私の『まとわりつくタイの音楽』や『タイの日常茶飯』に載っているが、最後に会ったのはサムロー(三輪車)の取材で東北タイを旅しているときだった。そのときは、彼の歌声は聴けなかった。
思えば、タイで知り合った人の何人もがすでに死んでいる。私より年上というのはひとりだけで、あとは同じ年と年下だ。知人とその家族ということで言え ば、死因はやはり病気が多いのだが、交通事故がひとり、殺されたのがひとり、そして人を殺したあと自殺したのがひとりいる。芸能人のなかでも、何人かがす でに死んでいる。好きな音楽家ではないが、北部音楽の重鎮だったチャラン・マノペットもなくなったそうだ。
今夜はダーキーをしのんで、久しぶりにカントゥルムを聴いてみようかとCDの棚に目をやったが、まだショックが大きくて、とても聴く気にはなれない。ほかのタイ音楽を聴くのもやはりつらいから、ラジオから流れる軽いレゲエを聴きながら、この文章を書いた。