18話 大差なし


 数年前のことだ。
 タイにアジアブックスという書店がある。バンコクに着いたらその支店めぐりをするのがいつもの行動なのだが、ある支店を出たところで、知人にばったり 会った。『食は東南アジアにあり』の著者のひとりであり、タイやマレーシアやラオスの小説を翻訳している歴史人類学者の星野龍夫さんだった。
「おやおや、こんなところで……」
「お久しぶりですね」
雲南に行った帰りなんですよ。あなたは?」
インドネシアの帰りです」
 立ち話だけでは話が終わらないから、今夜いっしょに食事をしようということになった。
「私はこのすぐ近くにいるんですが、どこで待ち合わせしましょうか。えーと、そうだな、このホテルのロビーにしましょう。7時でいいかな」
 星野さんは、すぐ近くのホテルの名をあげ、待ち合わせ場所を決めて別れた。どこで食事をするかは、決めなかった。会ってから決めればいいのだが、さて、 どこに行こうか。『食は東南アジアにあり』の著者と、『タイの日常茶飯』の著者がバンコクで食事をするのである。
 私は食べ歩きには、まったく興味がない。サラリーマンが昼休みに、うまいと評判の天丼をタクシーに乗ってわざわざ食べに行くとか、ラーメン研究のために 1日2杯以上食べ続けているといった話を雑誌などで自慢げにしていることがあるが、そういう趣味は私にはまったくない。バンコクでも、うまい店を求めて食 べ歩かないのは交通事情のひどさのせいでもあるが、もともとレストランめぐりに興味がないせいでもある。だから、日本でもタイでも、雑誌などのレストラン ガイドはいっさい読まない。
 だから、もし星野さんに「どこかうまい店に案内してよ」などと言われたとしても、特別に珍しいとかうまいとかいった評判の店など案内のしようがない。知 らないのだから。私は星野さんの情報網に期待した。星野さんなら、謎の東北タイ料理店とでもいった変な店に案内してくれるのではないか。
 7時ちょうどに、星野さんはそのホテルのロビーに姿を見せた。「どこに行きます?」という質問をする間もなく、星野さんは立ち止まらずにさっさと歩き続けた。ホテルの外に歩きだすのではなく、ホテルの奥に歩いていくのである。
「このホテルにだって、レストランくらいあるだろ……。あった。あそこにしよう」
 そこは、決して観光客向けの高級タイ料理店ではない。ビニールのベンチシートの椅子が並んでいる食堂だ。宿泊客がビュッフェスタイルの朝食をとる食堂で ある。一応エアコンは入っているが、他に客もなく、ただの殺風景な食堂である。美食を追及する趣味はないとはいっても、これじゃあまりに味けない。もう少 し工夫してほしいとは思ったけれど、そんなことを星野さんに言い出すわけにもいかない。「じゃあ、どこがいいの?」と聞かれても、特別な情報を持っている わけではない。
 注文は星野さんに任せた。テーブルに最初に運ばれてきたのは、ポピア・トート(揚げ春巻。タイには生のものと揚げたものの両方がある)。その料理を口に入れて、びっくりした。
「これ、うまいですねえ。いやー、うまい!」
「うん、本当に、うまいねえ、この店」と、案内した星野さんも感心したようだった。 期待していないどころか、まずいにちがいないと確信していたせいなの かもしれないが、どの料理もうまいと感じた。そこで浮かんだのが、「タイの平均値」ということだ。 タイは個人の経済力においても、学力や技術力において も、平均というものが意味をなさない。できる人と、できの悪い人との差がありすぎるのだ。物でも、その品質に差がありすぎるのだ。マッサージでも、「うま いなあ」と感心する店があっても、それは決して平均ではなく、後日行くととんでもなくひどいマッサージにあい、体を痛めるということがある。タイはそうい う社会なのだが、食べ物に関して言えば、どうにもひどい店に出くわす機会はあまりない。だから、ホテルの食堂の料理でも、そこそこか、そこそこ以上の料理 を出すことがある。というわけで、タイの食べ歩きはたいして意味がないと思う。食事する店を決めるとき、インテリアや場所などは重要な要因になるが、味は 好みの問題はあるにせよ、料理そのものの差はあまりないように思う。
 そんな訳で、先日タイで知人たちと食事をすることになって、「どこか、行きたい店はありますか」と聞かれたので、こう答えた。
「話ができるくらい静かな所で、タバコが吸えれば、それでいいですよ」
 じつは、そういう店は少ないのである。