最近、本を買う量は「やや多い」という程度なのだが、読み残しが多すぎる。棚の未読コーナーには、順番を待っている本が常に5冊程度はあるのが普通だったが、いまは棚に入りきれず、床に十数冊積んである。
読む速度が落ちた理由はいくつかあるのだが、そのひとつが「校閲読書」をしてしまうからだ。校正というのは、おもに漢字や表現など日本語の問題を扱うの だが、校閲というのは内容まで踏み込む。読んでいてわからないところがあると、ついつい調べてしまうのだ。「わからないところ」というのが、ある事件のあ らましとか、ある人物の生涯の調査ということもあるが、それよりも、書かれていることの確認ということが多い。
私の校閲読書を、具体的に紹介してみよう。ネタにするのは、たまたま床に積み上げてあった本の山が崩れて、久しぶりに姿を見た文庫だ。ちょっと読み始めて、「あれ?」と思ったので、これをネタ本にすることにした。
立松和平の『アジア偏愛日記』がネタ本だ。この本は、1997年までのアジア旅行の日記を、1998年に東京書籍から単行本で出版し、それが2002年 に徳間文庫に入ったという経歴で世に出た。つまり、最低ふたりの編集者の目と、いたかどうかわからないが何人かの校正者の目も通過している可能性のある文 章だ。
さて、いくぞ。
日記は、1997年2月9日のジャカルタから始まる。「今回はインドネシアの食を訪ねる旅である」そうだ。以下、気になった個所を箇条書きにしていく。
■「油で揚げるとジャガイモのような味がするジェンコ豆」・・・・こういうマメは知らないので、調べる。インドネシア語辞典を調べると、jengkol という語がどうやらそのマメらしいので、各種の植物事典で調べる。Pithecollobium lobata ほかいくつかの学名がある。和名は一応キンキジュというらしい。便利な世の中になったもので、インターネットですぐカラー写真を見ることが できるのだ。
■「クルプと呼ばれる揚げせんべい」・・・kerupuk
■「テンペは納豆の一種であり、豆腐のように固めてある」・・・というのは、違うだろ。テンペは豆腐とちがって、ダイズは粒のままだから。
■「ジャムーと呼ばれる香料」・・・香料じゃない。伝統薬だ。
■パパイヤの山は「パパイヤ酒工場に持っていくそうだ」・・・ええ、パパイヤの酒? それをインドネシアの工場で作っている? マユにつばをつけたくなる。
■「すっぱい野菜(サユール・アサム)や他の野菜をいれる」・・・たしかに、サユールは「野菜」、アサムは「すっぱい」だが、これはタマリンドで酸味をつけた野菜スープをさす料理名であって、野菜の名前ではない。
■「ケツンバアという山椒に似た香料を石でつぶしてすりこみ」・・・インドネシアの山椒? という方向で考えたので時間を食ってしまった。ケツンバアに音 が似たインドネシア語を探りつつ、インドネシア料理の本をあたると、クトゥンバル(ketumbar)だとわかった。コリアンダーだが、山椒に見える?
■「角バナナを、熱湯にいれてゆでる。こうするとピサン・ルグス(ゆでバナナ)になる」・・・インドネシア語の「ゆでる」は、rebus だから、ルグスではなくルブス。
これで、まだジャカルタの一日分が終わらない。なんてこった。調べるのにくたびれたので、ページを飛ばしてタイ編をパラパラ読む。
あれっ?
■「マカムは火焔樹の実だ」・・・マカームは、タマリンドのことだから、まったく違う。日本で火炎樹あるいは火焔樹と呼んでいる植物は2種類あって、ひと つはマメ科のホウオウボク、もうひとつはノウゼンカズラ科のカエンジュである。ホウオウボクの英語名はフレームツリー(炎の木)だから、ややこしい。ホウ オウボクは雨季と乾季がはっきりしているインドシナに多く、カエンジュのほうは年中雨が降っているマレーシアやインドネシアに多い。こういう情報を、『東 南アジア樹木紀行』(渡辺弘之、昭和堂、2005年)で、確認する
■「覚醒剤とは、タイの言葉でヤー(馬)マー(元気)、馬なみに元気という意味である。しかし、最近では、ヤー(馬)マー(頭がおかしい)ということに なっている」・・・どちらも「ヤーマー」では、日本語としても理解できないはず。覚醒剤は、ヤー(薬)マー(馬)、つまり馬薬と呼んでいた。馬のように元 気になるという意味だろう。薬(やく)がヤー、馬(うま)がマーだから、日本人にはわかりやすい。覚醒剤がタイでも大問題になり、「こういう、優しい名だ から罪悪感がないのだ」という理由で、たしか政府主導で、1990年代末に「ヤーバー」と呼ぶことになった。ヤー(薬)バー(バカ)、つまり「バカ薬」と いう意味だ。
たった数ページ読むのに、これだけ調べるのだから、読了するのは大変なのだが、この手の 本は内容がないので、読了する必要はない。しかし、「アジアの勉強」の練習問題集だと考えれば、アジア研究専攻の大学生のテキストに充分使える。本文のど の部分が、どうおかしいのか気がつくだけでも、けっこう知識が必要で、「おかしい」と思う個所の校閲をやるには、もっと深い知識と根気が要求される。皮肉 で言っているのではなく、校閲は本当に勉強になる。「人のふんどしでお勉強」である。
と、まあ、こういうことを書くと、立松和平を笑い者にしているだけじゃないかと感じる人がいるかもしれないが、私の意図はそこにはない。小泉武夫はイン チキ教授だから、大いに批判するべきだと思うが、立松のこの文章については、同業者として同情する気持ちが少しはある。耳で聞いただけの外国語をメモし、 それをカタカナ表記で原稿にそのまま使うのはたしかに軽率ではあるが、私だってアラビア語やシンハラ語なら同じことをやってしまうかもしれない。私は売れ ないライターだから、極力確認は取ろうと思えば、その時間もたっぷりあるが、世のライターは私のようにヒマではないし、担当編集者だって、私を担当した編 集者たちのように熱心ではないだろうから、間違いを見つけて指摘するような面倒なことはしないだろう。とくに、文庫本は著者が訂正しない限り、差別語を チェックするだけで親本のまま文庫化することが多いようだ。もちろん、出版社による違いもあれば、編集者の熱意の違いもある。
だから、立松批判というより、「明日はわが身」という気持ち、いや、「明日」どころかいままでだって、無知と不注意によって、かなり間違いを犯しているのだから、「いつもわが身」である。