169話 日本タイ協会


 ネット古書店で、こんな本を見つけてすぐさま買った。『タイ民衆の生活 ―伝統的世界・近代的世界―』(ピア・アヌマーン・ラーチャトン著、小泉康一訳、財団法人日本タイ協会、1982年、非売品)だ。すでに井村文化事業社か ら出ている本と重なる部分があるのかどうかわからなかったが、この著者の本なら重なる危険性を犯してでも買っておこうと思って注文した。
 注文したときには版元のことなどまったく気にしていなかったが、本が届いてみると、この日本タイ協会という団体がちょっと気になった。いったい、いつま であった団体なのか知りたくなって、インターネットで検索してみた。すると、なんだ、まだ活動している団体じゃないか。私はもう30年以上タイと関わって きたが、この協会とはまったく接触がないので、情報もない。
 この協会は、おもにタイで活動するメーカーや商社や銀行などか参加する団体のようで、邦人会員が142社いるが、個人会員はわずかに12名という数字を見ていて、植木等のセリフが浮かんだ。
「はい、お呼びじゃないのね」
 役員名簿を見ても、その名に見覚えがあるのは、元駐タイ大使の岡崎久彦氏だけだ。ほかの方々も、経済界では名士なのでしょうが、だからこそ私とはまったく関係がない。
 それはどうでもいいことなのだが、この協会の「沿革」を読んでみると、以前から疑問に思っていたことがちょっと解決した。
 1927年(昭和2年)の夏、男爵大倉喜七郎(1882〜1963。大倉財閥の二代目)がシャムを訪問したのを契機に、同年12月、東京で暹羅協会設立 される。大倉のタイ訪問の目的は、まだ調べていないので、わかればいずれここで書きます。この協会の総裁は秩父宮、会長は近衛文麿だから、やはりじっくり と調べてみる必要はありそうだ。
 協会は1935(昭和10)年に、財団法人日暹協会と改称し、1939(昭和14)年にシャムがタイと国名を変えたので、財団法人日本タイ協会に改称。
 以上がAの流れで、次にBの流れがある。
 1935(昭和10)年に三井合名会社内に暹羅室を設立。
 1940(昭和15)年、三井合名会社から独立して、タイ室東京事務局と改称。
 1943(昭和18)年、財団法人に改組。
 1951(昭和26)年、財団法人タイ室と改称
 そして、1967(昭和42)年、財団法人日本タイ協会と合併して、現在の財団法人日本タイ協会となる。
 私が「疑問に思っていた」というのは、もしかすると日本最初のタイのガイドブックとなるかもしれない『暹羅案内』(1938年)の奥付けの編者と発行所欄に、「三井三号館 暹羅室」となっていたからだ。
 日本タイ協会を調べていて、副産物として星田晋吾氏の詳しい経歴がわかった。まだタイの資料などほとんどない1970年代から、タイについて調べていた者なら知らない人はいないと思える『タイ ― その生活と文化』(学研、1972年)の著者である。なんだか、いろいろやっている。
 星田氏の経歴を書き出してみる。面倒なので、西暦には直さない。

明治32年生まれ
大正 6年 神戸市大蔵省税務監督局雇員
大正 7年 日本郵船神戸支社入社
大正14年 早稲田大学文学部哲学科卒業 神奈川県立平塚農業学校教諭
大正15年 早稲田大学大学院文科中退
昭和11年 早稲田大学大学院文科再入学 同年中退
昭和11年 財団法人日語文化協会立日語文化学校教員
昭和13年 外務省文化事業部の助成で、タイに渡航。タイ・日本協会幹事。日本・タイ文化研究所を創設し、主事。併設の日本語学校の理事。
昭和15年 読売新聞バンコク駐在記者
昭和16年 財団法人国際文化振興会南アジア文化事業委員会勤務
昭和17年 財団法人日本タイ協会調査部勤務
昭和23年 連合軍総司令部民事検閲部特殊通訳勤務
昭和26年 法務府特別審査局調査部法務事務官
昭和28年 法務省公安調査庁総務部資料課事務官
昭和30年 同省退職
昭和31年 在日タイ大使館勤務
昭和53年 肺炎により死去

 わからない事柄が少々わかった結果、調べたくなる事柄がまた増えてしまった。