171話 『バンコクの好奇心』の時代がやっと来た その1


  2006年秋にバンコクに行った。例によって、やることはいつもと同じ本屋巡りだ。もっとも期待していたのは、移転して新装成ったチュラロンコーン大学の 本屋だったが、これといってめぼしい本はなかった。タイに行けば必ずこの本屋に行き、学術書や論文集など他の本屋では手に入らない文書を手に入れるのだ が、今回は一冊も買わずに店を出た。こんな不漁は、めったになかったことだ。ついでにガッカリ話をもうひとつ書いておけば、サイアムスクエアーのDKブッ クスは、おもしろくなさそうなタイ語の本だけを集めたような本屋になりはて、さびれた印象を受けた。平日の昼下がりのせいかもしれないが、客の姿はなく、 閑散としていた。
 毎日のように本屋巡りをしていて気がついたのは、不遜にもほどがあるといわれそうだが、時代はやっと拙著『バンコクの好奇心』に追いついてきたということだ。
 イラストいっぱいのタイ旅行雑学本があった。紙面に記憶がある。フランスのガリマール社から出ていた旅行雑学本で、日本では「望遠郷」のシリーズ名で同 朋舎出版から何冊も出た。そのシリーズのタイ編は『旅する21世紀ブック 望遠郷 3 タイ』として1994年に発売されている。私がバンコクの書店で見 たのは、このシリーズの英語版だが、既刊の縦長の英語版とは違い、正方形にやや近い版型だった。この雑語林で書名など書誌学的データが書けないのは、既刊 の本と内容に変わりはないだろうと思い、詳しくチェックしなかったからだ。買う気のない本には、冷たいのだ。
 タイの民具など道具類を集めた本も見つけた。
"Things Thailand" Tanistha Dansilp & Michel Freeman , Asia Books , Bangkok , 2001
 という本で、まあ、悪いできじゃないが、すでにタイ語と英語二言語による
"Directory of Thai Folk Handicrafts Book of Illustrated Information" Pub. by The Industrial Finance Corporation of Thailand , Bangkok , 1989
 という民具百科事典のような厚い本をすでに持っているので、買わなかった。
この2冊よりももっと『好奇心』よりなのが、次の2冊。
"Bangkok Inside Out" Daniel Ziv & Guy Sharett, EquinoxPub. Jakarta, 2005
"Very Thai Everyday Popular Culture" Philip Cornwel-Smith & John Gross, River Books Bangkok, 2006
 この2冊とも、基本的方向は我が『好奇心』と同じである。交通や食べもの、建築や芸能など種々雑多な事柄に関するコラムと写真で構成されている。我が 『好奇心』と決定的に違うのは、この2冊とも全ぺージカラー で、したがって高価だということだ。英語の本でも、我が『好奇心』に遅れること15年で、やっと追いついてきたのだという感慨とともに、さっそく読んでみ た。表面的には『好奇心』に似ているのだが、文章の方向が違う。2冊の英語本は、さまざまな事柄のスケッチである。あるいは、新聞記事を参考にしたエッセ イだ。わかりやすく言えば、彼らは今しか見ていない。「美人コンテスト」を取り上げたページでは、テレビのこぼれ話程度の内容で、「なぜ」がない。「過 去」がないのだ。だから、取り上げるテーマはおもしろいのだが、参考になる記述がない。「なるほどそうだったのか」と敬服、感服させられる内容がないの だ。
 例えば、なぜ、美人コンテストをするのか、いつから始まったのか。それが書いてない。
 私の場合、どんなテーマでも、基礎知識を得るために、いつもその歴史を調べることから始める。この2冊の本を書いたふたりだけでなく、タイを書く日本人 ライターたちも、ある事柄の現状の印象記だけを書き、過去からのいきさつに触れないのが不思議でならない。過去があって現在があるのに、過去を調べもしな いライターの姿勢がわからない。調べた過去を原稿に入れるかどうかは、それぞれ書き手の判断しだいだが、調べる気のないライターがいるというのが、わから ない。
 例えば、バンコクのバスについて書く人は多いが、その過去に触れる人は、さて、どれだけいたか。
 タイ語でバスは「ロット・メー」という。ロットは車という意味だ。メーは、タイ語をちょっと知っている人なら「母さん」のことかと想像するかもしれな い。しかし、タイ語の綴りを読めば、「母さん」ではないとわかり、調べれば、英語のMAIL、つまり「メール」のことで、ルが落ちて「メー」になったの だ、つまり、「ロット・メー」とは「郵便車」という意味で、この場合の「車」はじつは馬車の「車」なのだとわかってくる。ロット・メーはもともと郵便馬車 で、郵便といっしょに人も運ぶ馬車がのちに郵便自動車になり、乗り合い自動車に変わる歴史を一応頭に入れて、タイのバス事情を書きたいと私は思うのだが、 どうも他の人はそうではないらしい。読者も過去のことには興味がないらしいので、おおかたの人にはそれでいいのかもしれないが、私が読者になると、どうに ももの足りない。
 あるいはまた、次のような「過去」がある。興味深いとは思わないのだろうか。
 例えば、タイの美人コンテストが、憲法と深い関係があるといったら。1932年に制定されたタイ最初の憲法発布を記念して、内務省主催で行なわれた記念 式典で「ナンサーオ・サヤーム」(ミス・サイアム)コンテストが行なわれた。これが、タイにおける最初のミス・コンテストである。そのあたりのことを調べ たらおもしろいと、私は思うのだが、私の興味の方向とほかのライターの興味の方向は違うようだ。
 長くなったので、続きは次回とする。