211話 刺身への多大な情熱


 古本屋のワゴンで、『海外食生活百科』(木村学而・鈴木清編、フジ・テクノシステム発行、東京官書普及発売、1986年)を買った。定価は4500円だが、古本屋の売価は500円だった。
 東京官書普及は、政府刊行物の販売をやっている会社だけに、これは普通の本ではない。どういう団体や個人が企画した本なのか不明だし、一般の書店で販売 する意図もないらしい。ISBNコードも定価も、奥付けに印刷してある。国際協力事業団をはじめ海外滞在経験者たちが、コラムやエッセイを書いている。そ のなかで、名に見覚えがある書き手は、阿部年晴・埼玉大教授だけだ。
 この本を簡単に説明すれば、外国で長期滞在する日本人に、現地の食生活情報を与えようというものだ。駐在員が滞在地の料理を紹介するといった本は何冊か 発売されているが、そういう本ではない。もちろん、現地の食文化の簡単な紹介はあるが、中心は駐在員のための現地食生活ガイドである。例えば、日本人好み の食材がどの程度入手できるのか、米は、生魚は、醤油はどうかといった話題も載っている。納豆、豆腐、もやし、あるいは脱脂粉乳を原料にしたカテッジチー ズの作り方なども載っている。
 海外で生活する場合の基本情報と、地域別、国別の詳しい情報が載っている。ただし、1986年の発売なので、もはや実用情報としては使えないが、世界の どこの地域でも駐在員生活をする気がないので、実用情報などもともと私には必要がないのだ。読んで、おもしろそうなので、買ったにすぎない。
 日本から持っていったほうがいい台所用品の「三種の神器」としているのは、包丁(菜切り包丁と出刃包丁)、砥石、プラスチックのまな板だという。まあ、 そうだろうなあとは思うものの、現在の日本の家庭で、出刃包丁がどれだけ活躍しているか疑問だ。日本では魚屋でさばいてくれるのに慣れているから、外国で は自分で魚をおろすために出刃包丁が必要なのだろうが、さて、使いこなせるか。
 隔世の感があるのは、日本から持っていったほうがいいとされる食品リストだ。1986年の事情だと、東南アジアには、「わかめ、のり、みそ、サラダ油、真空パック入り漬け物、野菜の種子」だそうだ。
 現在のバンコクでもシンガポールでも、こうした日本の食品は普通に手に入る。日本の小都市よりも、食品のバラエティーは豊富だといっていい。ところが、 アフリカや中東地域では、20年たっても、事情はまだ変わっていないと思う。ソースだって、わさびだって、なんでも日本から持っていく必要があるだろう。
 ケニアの項目を見ていたら、「この一年半、無塩バターは姿を消したまま」という書き込みがあった。それで思い出したのは、ナイロビでたった1回許したぜ いたくがケーキで、ボソボソでしかも塩味が強かったことだ。「ここには、無塩バターがないからだよ」と旅行者が解説してくれた。
 この本をざっと拾い読みすると、あらためて日本人は「生食」の民族だと気がつく。解説ページには、「鮮度のおちた冷凍魚の見分け方」と題して、それぞれ の魚の注意点が書いてある。当然、寄生虫の説明もある。圧巻は、日本在外企業協会が実施したアンケート調査の結果だ。海外107都市における調査で、「生 鮮食料品の調達・鮮度・生食の可否」一覧表が載っている。世界107都市の生魚・生野菜事情アンケート調査だ。
 例えば、マドラス。「質を問わねば一応は購入可能。肉、魚、野菜とも種類が豊富だが、ない時もある。鮮度、清潔さは最低で生食は不可」
 アルジェリアのオラン。「日本食、米は当地で入手。カリフォルニア米でうまい。魚は地中海より新鮮なものが入り、刺身は日本よりうまい。野菜、果物も豊富。調味料のみ日本、パリ等から持ってくる」
 という具合に、107都市の生魚事情がリストされている。それほどに、日本人には生魚が重要なのだ。
 私は、すしも刺身も好きだが、なくてもさほど苦にならないので、こういう刺身に対する情熱は共有できない。刺身よりも、もっと食べたいものがあるが、それはまた別の話。