364話 駐在員の異文化体験

 その書名から、企業駐在員の異文化体験を考察した本だろうと想像して、見つけてすぐに注文したのが、『外貨を稼いだ男たち  戦前・戦中・ビジネスマン洋行戦記』(小島英俊、朝日新書、2011)なのだが、読んでみれば羊頭狗肉、看板に偽りあり、ビジネスマンの駐在体験記ではなく、日本経済史と海外進出企業の話だった。元は三菱商事の社員だったという経歴から、興味深い異文化体験談が読めるのだろうと期待した私が甘かった。
ついでに、余計なことを書いておくと、この本では戦後の部分はほとんど書いてないのに、唐突に毎日新聞欧米局長・高田市太郎の戦後の海外旅行の話が出てくる。そして、『毎日新聞百年史』から、高田の帰国後の様子を引用しているのだが、その引用部分が、拙著『旅行記でめぐる世界』で私が引用した部分とまったく同じなのだ。私が省略した部分も、同じように省略しての引用なのである。だからどうだということではないが、あまりに唐突なので、驚いた。
 せっかく買った本に失望しているときに古本屋で見つけたのが、『デッッセルドルフの思い出』(高木常治郎編、アトリエルーファス、2006)という、おそらく自費出版物だ。1960年代から現在まで、ドイツのデュッセルドルフに滞在したことのある人々が、思い出話を寄稿している本だ。「定価1500円」と表示してあるが、関係者に配ることを目的にしたものだろう。だから、内容について部外者があれこれ言うような本ではないが、まあ、資料にはならない。企業駐在員の関心、あるいは重要課題は、仕事と日本人社会での付き合いだから、部外者でもおもしろいという思い出話などあるはずもない。ちなみに、この街で少女時代を過ごしたのが、元フジテレビのアナウンサー内田恭子だが、彼女に関する思い出話は出てこない。
 60人ほどが寄稿したなかで、傍線を引いて付箋を付けた文章は2編あり、それらはいずれも企業駐在員のものではなかった。1964年からドイツで暮らしている日本料理人は、赴任当時は「中華料理店でさえ、焼きそばにスパゲティを使っていた時代だった」と書いている。1970年前後に、ボン大学医学部の助手をしていた人は、「デュッセルドルフで買えるカリフォルニア米など当時の我々の財政状況では買うことができずたまに食べれる中国レストランでの白飯には皆んなで感激したものだった」と書いている。
考えてみれば、企業駐在員の体験者は、戦後だけでも数十万人くらいはいるだろう。あるいは、家族も含めれば、軽く100万人を超えているかもしれない。それだけの人がいて、体験が積み重ねられても、それを作品にまとめ上げたのはほとんど深田祐介だけだと思う。駐在員が主人公のミステリーはいくらかあるが、リアリティーに乏しい。学者の長期滞在は、みずから望んで研究地に赴いたのだから、辞令1枚で派遣されたサラリーマンの場合とは精神面の違いが大きい。研究者や旅行者とは違い、「好きで来たわけじゃない」人たちとその家族の滞在記は、カルチャーショックの研究として、興味深いのだ。
 駐在員のカルチャーショックや孤独感、ホームシックなど、さまざまな精神状況のなかで生きた異郷の企業人の姿を、深田以上に描写した作家を私は知らない。例えば、『新西洋事情』(1975)、『西洋交際始末』(1976)、『日本商人事情』(1979)、『革命商人』(1979)、『われら海を渡る』(1980)など、1980年代までに発表した作品には、どこの国にも日本料理店などないのが普通で、醤油も簡単には手に入らない時代の、日本人駐在員の姿が描かれている。そういう希少価値の作家としては、深田祐介はもっと評価していいと思う。つまらない作品も数多くあるが、それは他の作家についても言えることだ。
 旅をすれば、誰でもすばらしい旅行記が書けるわけではないように、駐在員生活を送れば、誰でもすばらしい駐在体験記を書けるわけではない。旅行記でも滞在記でも、すぐれた書き手による作品を、読者は待っているのだ。
貧乏旅行者である私は、企業駐在員とは交差しない旅をしてきたし、経済的には優雅に過ごしている人たちに特別の思い入れはないが、異文化対応という点では、私の関心領域に入って来る。駐在員の体験記は、現在では文芸社の出版物をはじめ自費出版物には数多くあり、もの好きにも、私はけっこう買い集めて読んでいる。素人の本だから、「期待なんかするんじゃないぞ」と自分に言い聞かせてはいるものの、やはり、わずかの可能性を求めて、沙漠に金の粒を探してしまい、結局徒労を感じて終わるのだが、それでもインターネット書店で滞在記を見つけると、内容のレベルはまったくわからないのに、ついつい注文をしてしまうのだ。
 大手であれ、零細であれ、出版社から出ている旅行記は読む気がしないのに、自費出版の駐在員モノを読みたいと思うのは、私と別世界にいる人たちの体験を知りたいと思うからなのだが、私を満足させてくれる駐在員滞在記は、旅行記同様、なかなかない。