ジャック・ケルアックが1957年に発表した”On the Road”が、河出書房新社の世界新文学双書の1冊として、『路上』(福田実訳)のタイトルで出版されたのは1959年のことである。その後何度か姿を変えて出版され、河出文庫に入ったのは1983年だ。
この小説が、池澤夏樹の個人編集による世界文学全集の1冊として、青山南の翻訳で出版されたのは、2007年のことだ。その時に、タイトルが『オン・ザ・ロード』と変わっている。その理由らしきことが、訳者当人が、その本の「解説」ページで次のように書いている。
<ジャック・ケルアックでまずなによりすごいと思わされるのは、その鋭い語感である。たとえば、『オン・ザ・ロード』(On the Road)というタイトルひとつとっても、じつにありふれた日常の言葉だが、よくぞ選んだと感心させられる。まず浮かぶのは、長いこと邦題にもなっていた「路上」という日本語だが、本来は「旅行中」とか「巡業中」とか「家出中」とか「放浪している」とか「途上にある」という意味で使用されるふつうの熟語だから、この語を見ると、いきおい、いろいろな情景が頭に浮かんでくる。>
つまり、”on the road”という熟語にはさまざまな意味があり、さまざまな情景が浮かぶのだから、「路上」という意味に限定したくないということなのだろう。
そこで、ここからはいいがかりだ。”on the road”という熟語にさまざまな意味があることを翻訳者は当然知っているが、読者も同じように知っていると思っているのだろうか。日本人読者が知らないなら、わざわざカタカナ表記の英語をタイトルにする必要はない。それなのに、英語のタイトルのままにするというのは、「英語だと、カッコいいじゃん。売れるんじゃない?」という感覚だろうか。
外国語のある単語がさまざまな意味があって、日本語にできないからカタカナで書くというなら、翻訳などやめればいい。英語を使っていれば格好いいという能天気な西洋崇拝思想も、私は気に入らない。昨今の映画タイトルが、言語のカタカナ表記が多いのは、映画宣伝部には英語ができても日本語が不自由なスタッフばかり揃っているあかしだ。ついでに言っておくと、英語だけでなく中国語のタイトルも、そのまま日本タイトルにするのも困ったものだ。私の大好きな作品の日本タイトルは「變臉 この櫂に手をそえて」。こういうタイトルが読めるか? こうした例はいくらでもある。読めないし書けない日本タイトルに決めた宣伝部は、いったい何を考えているのだ。
もうひとつのいいがかりは、なぜ「路上」ではいけないのかということだ。バスやヒッチハイクで旅するこの小説は、「旅行中」とか「巡業中」といった意味が必要なのか。「家出中」とか「放浪している」とか「途上にある」という意味も、読者に伝えないといけないのか。「路上」でいいじゃないか。
ヒッチハイクをした経験があれば、「路上」という言葉に思い浮かぶ情景はいくらでもある、暑さや寒さや、孤独感や友情や、出会いや別れが、「路上」という語で思い浮かぶのである。ヒッチハイクでなくても、バスなどでふらふらとさまよう旅をしていても、やはり「路上」と言う語に格別のいとおしさを感じるのである。
<人生で最高のヒッチハイクがいよいよ始まったのは、荷台に六,七人の男がでれっと寝転がったトラックがやってきたときで、運転していたのはミネソタのふたりの若いブロンドの農夫、路上に立っている者をだれかまわず乗せていた―そうそうお目にかかれない、にこにこ顔の陽気でハンサムな田舎者のふたりで、・・・・。(中略)ぼくは駆け寄って「乗れる?」と訊いた。「もちろんだ。乗れよ。だれだって乗れる」とふたりは言った。>
『オン・ザ・ロード』(青山南訳、河出文庫版) 41ページ
トラックの荷台に乗せてもらって移動する旅の感覚は、やはり「路上」という語がふさわしいと思う。もし、翻訳者がヒッチハイクで旅をしていた経験があれば、この「路上」感覚を大切にしたのではないかという気がするのである。