371話 ソウルのトンカス  3/3

 昼食後も、宿に戻ってまだ雑談会が続いた。3時ごろになって、ちょっとお腹がすいた時刻に、うまい具合に、宿の庭に物売りのおばあさんが姿を見せた。お盆にのっているのは、のり巻きだとすぐにわかる。きょうの昼飯が、トンカツにうどん。街を歩いていて、今川焼の店も見つけた。逆さクラゲのマークも何度も見つけたが、これは銭湯の印だ。韓国の文化が日本の強い影響を受けていることはすでにわかっているから、「なんと、のり巻きが、こんな所に!」という驚きはない。しかし、韓国ののり巻きがどういう味なのか知りたくて、おばあさんが縁側に近づくのを待った。
「キムパップ」
 おばあさんが言った。語尾のP音がちゃんと聞きとれた。発音練習のために、私も同じように発音してみたが、だいぶおかしいらしく、何度も発音を直された。おばあさんは、ここに日本人が3人いるのはわかっているはずだが、日本語で話しかけるようなことはしなかった。台湾なら、思い出話や世間話がすぐ始まる状況なのに、韓国は台湾とえらく違うのだなあというのも、韓国という国の印象だった。
 のり巻きを1本買った。どういう具が入っていたかは覚えていないが、細巻きで、ゴマ油の香りがしたのが韓国らしいと思った。それ以後、韓国ののり巻きは細巻きだと思っていたのだが、最近のテレビや雑誌などで見かけるのり巻きに、太巻き中巻きのものもあって、私の記憶力に自信が持てなくなってきた。
 韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」や「イ・サン」の日本語版の監修を担当した朝倉敏夫さん(国立民族学博物館)に先日会った時、こののり巻きの話をしたら、韓国ののり巻きが太巻に変わっていくのは比較的最近のことで、おそらく関西の巻きずしの影響でしょうという話だった。
 韓国の経済力が高くなるにつれて、トンカスの肉が厚くなってきたように、のり巻きも具が多種大量に入る豪華な太巻へと姿を変えていったようだ。
 誰が言い出したのか、「夕飯は、焼肉がいいな」ということになって、我々3人は街に出た。焼肉を韓国語で「プルコギ」ということくらいは知っていたから、食堂での注文は苦労しなかった。各種キムチが何皿も運ばれ、旅行中のハレの宴席の気分が盛り上がった。調味料に長時間漬けたために、完全にうまみが出てしまった肉を、トタン製のようにペナペナのジンギスカン鍋にのせて煮るのがプルコギなのだと、この時初めて知った。肉の味はしない。砂糖の甘味しかしない。どこの国の料理であれ、べたべた甘い料理は勘弁してもらいたい。日記には「一人分1100ウォン。高くて、甘くて、まずい」と書いてある。あの料理を「焼き肉」だと思わず、「韓国式すき焼き」とでも解釈すれば、ただのまずい料理にすぎないのだが、「日本の焼き肉」をイメージして店に入って、あのプルコギを出されると、イメージと現実のあまりの落差にショックが大きく、ついついプルコギを罵倒したくなるのである。このアジア雑語林の317と318回にプルコギの話を書いている。結局、プルコギを食べたのは、あの夜が最初で、いまのところ最後だ。
 夕食後のことは、日記には何も書いてないが、宿で雑談したはずだ。翌日3時半まで話をしたというのは、ただ単に話しているのが楽しかったからというだけではなく、おそらく、この二人が早朝ソウルを出発するので、その時刻まで雑談していたような気がする。当時の韓国は、まだ夜間外出禁止令があった時代だから、朝は何時から行動してよかったのかは覚えていないが、おそらく、早朝の出発だったのだと思う。
「寝ても中途半端な時間に起きなきゃいけないし、このまま話してようか」と言って、だらだらと話を続けるようなことは、旅行中にはよくあることだ。
 彼らがどこに向けて出発したのか、日記には何も書いてない。福岡かもしれないし、那覇かもしれない。彼らの名前も覚えてないし、日記に別れの様子も何も書いてないが、それは出会いと別れを繰り返す旅行中では、ごく普通のことだ。彼らとどんな話をしたかも覚えていないが、ただ、彼女の長い黒髪とやや黒い肌の美しい沖縄顔は、いままでずっと忘れずにいた・・・と書けばもっともらしい文章のシメなのだが、じつはすっかり忘れていた。1978年のソウルで、トンカスやプルコギを食べたことは、のちに文章にしているので、ずっと忘れずにいたが、いっしょに食べた人のことはきれいさっぱりと忘れていた。あれから30年以上たって、ハワイ育ちのあのモデルをテレビで見て、1978年の夏のソウルの安宿と、とびきり魅力的だった彼女を突然思い出したのである。
 やはり、私は食欲世界の人間らしい。