398話 むかし話をする人が

 前回に引き続いて、韓国文化の本に「参考文献」として登場したもう1冊の本から、話を始める。
 ある本を読んでいたら、参考文献として使っている『朝鮮の食と文化 ―日本・中国との比較から見えてくるもの―』(佐々木道雄、1996)という本からの引用があり、ちょっとおもしろそうだ。「むくげの会」という団体が発行した本で、どうやら一般書ではないようだ。アマゾンで検索すれば手に入るようだが、内容とそのレベルがまったくわからない本の場合、よほど安くないと注文する気になれない。買うかどうか考えながら、地元の図書館の蔵書リストから検索すると、なんと、あった。それなら、買わないで、そのうち、図書館で現物を借りようと思った。いますぐ読みたいわけではなく、読む必要もないので、「まあ、そのうちに・・・」ということにした。
 それから数日後、なんとその本を自宅の食文化の書棚で発見したのである。なんだ、持ってたのか。「読みたい」と思った本を、すでに買っているとか読んでいるというのは、私にとってそれほど珍しいことではないのだが、ちょっと不可解なことがあった。この本をアマゾンで買った場合は、のちに同じその本を検索すると、画面にこういう表示がでる。
 前川健一さんのご注文状況のおしらせ お客様は20××/×/××にこの商品を注文しました
 この表示が出るおかげで、同じ本をまた注文しないですむ。私にとって「おもしろそうな本」の枠に入る本はある程度限られるので、アマゾンで同じ本を検索することが少なくない。読んだとはっきり記憶していれば、本の詳細を調べることはしないのだが、記憶があやふやだと、買おうかどうか点検するために詳細を調べていると、上の表示がでて、「ああ、やっぱり読んでいたか」と気がつくというわけだ。
 しかし、『朝鮮の食と文化』にはこういう表示が出ないから、アマゾンで買ったわけではない。「むくげの会」という集まりの、いわば自費出版のような本だから、普通の本屋には置いてないはずで・・・、と考えていて、思いだした。普通ではない本屋で買ったのだ。神田神保町のアジア文庫で買ったのだ。アジア文庫に行くと、まずは新刊書と東南アジアのコーナーの本を点検するのだが、もう何年もめぼしい本はなく、結局、朝鮮・韓国書コーナーで何か買うというのが習慣になっていた。
 自宅の書棚からこの本を取り出して、ページをパラパラとめくってみたが、なぜか読んだ記憶がない。「トウガラシ」を取り上げて項では、本文で拙著『東南アジアの日常茶飯』にも言及しているので、読んでいれば覚えていそうなのだが、記憶がない。読んでいても記憶がないこともあるから、まあ、いつものことだ。この本を拾い読みしていたら、挟んであったレシートを見つけた。やはり、アジア文庫のものだ。日付は、「96-05-10 17:29」。この本は、1996年4月10日の発行だから、発行からひと月後、おそらく入荷してすぐに、初版500部のうちの1冊を私が買ったようだ。1996年といえば16年前だから、覚えてなくてもしょうがないか。
 ここから話がちょっと変わる。
 俳優小沢昭一のエッセイに、長生きするということは、思い出話ができる人を失うことだという一節があった。そのときは、そういうものかなあという印象しかなかった。この小沢昭一の話を叔母にすると、「そうよ、本当にそうなの」としみじみと言ったときも、格別の感情というものはなかったのだが、それから半年ほどしてその叔母が急死して、もう母の子供の頃のことを記憶している人は、この世に誰もいないのだと気がついて、ちょっと落ち込んだ。その頃、母は子供時代の詳しい記憶をかなり失っていたから、叔母の力を借りて、母たち一家が過ごした戦前の上海の生活を話してもらっていたところだった。
 叔母に続いて、アジア文庫の大野さんを失った。いま、ここで書いた『朝鮮の食と文化』のような話ができる相手がいない。むかし話もいまの話も、できる人がひとり消えしまった。「神保町の、あの本屋が品揃えをすっかり変えてねえ・・」という話ができる人もいない。東京堂書店が改装したよというような話ができないだけでなく、最近は、そもそも神保町にもあまり足を運ばなくなった。話をしたい人がいないのだから、行ってもしょうがない。大好きな喫茶店、ミロンガ・ヌオーバにも、ずいぶん行っていない。必要な本を買ったら、すぐに帰りたくなるからだ。かつて、日本にいれば、どんなに少なくても、ひと月に1回は神保町を散歩したいと思っていたが、いまでは古本屋巡りもさほど楽しいものではなくなってしまった。読みたい本が、ほとんどないからだ。