418話 なんなんだろうなあ、このバックパッカー論  前編

 バックパッカーに関する研究で博士論文を書いた人がいるようで、どうやらその論文が出版されるらしいという噂を耳にして(正確には、「ネット上で知って」だが)、本屋の人文書コーナーの専門書を探したが見つからず、店を出ようとしたところで、出口の脇の台車にのっているその本を見つけた。その日が発売日だった。学術書らしいハードカバーの本を予想していたのだが、装丁は文芸社の旅の本のようだったのは意外だった。
 大学卒業後、中学校教師。のち、海外青年協力隊でパプア・ニューギニア滞在。のちに、自転車で5年の旅。帰国して大学院生。現在大学教員という経歴の著者が書いた『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(大野哲也世界思想社、2012)は、読んでみても文芸社旅行記の部分と、私がずっと腹を立てている理屈ばかりの学者の本の部分が合体して、不協和音を奏でている。
この本は、環境人類学専攻の学者が、バックパッカーたちにインタビューして、バックパッキングという旅の仕方や思想を解説しつつ、バックパッカー像を紹介している。と、言えば、勘のいい人は、『アジアン・ジャパニーズ』(小林紀晴)を思い浮かべるだろうが、その通り、あの本から写真を取り去り、その代わりにちょっと理屈っぽい文章で埋め、自分自身の旅行記を加えたような変な本なのだ。もし、大向こうからこの本に声をかけるなら、「お粗末!」がふさわしいだろう。
 突っ込みどころが多すぎて、付箋だらけになっている本だから、問題点の全部を紹介してもしょうがない。数か所だけあげておく。
 まずは、歴史的知識の欠如だ。この本は、サブタイトルが「バックパッカーの人類学」なのだが、一番肝心なバックパッカーの定義があいまいなのだ。だから、バックパック―の一般化とか、バックパッカーの変容といった説明をしていても、元のバックパッカーがどういうものかきちんと説明していないので、要領を得ない解説になってしまう。
 バックパッカーについて研究をするなら、絶対に必要なのはその歴史である。「そもそも」を、「人類の旅」から始めるのか、ドイツの遍歴職人や遍歴学者そしてユースホステルワンダーフォーゲルの運動から始めるのか。あるいはイギリスのグランドツアーからか。アメリカのヘンリー・デイビッド・ソローの思想や行動には触れるのか。ビートやベビー・ブーマーやヒッピーの思想や、ジャンボジェット機のことなど、若者の世界旅行の背景を押さえる行為を、著者がどこまで突っ込んで研究しているのかわからない。少なくとも、紙面にはまったく出てこない。読者に、「バックパッカー史」の解説はしていない。
 世界の若者たちはいかに旅を始めたのか、「バックパッカー」と呼ばれる旅行者はいかにして誕生したのかという考察が、この本にはないのだ。ちなみに、アマゾンの「洋書」で、”backpacking”や”backpacker”で検索すると、そのほとんどはアウトドア関連の本がヒットする。バックパッカーとは、狭義には、野山を歩きキャンプをして旅する人たちというような意味だ。そこから、若者の旅行の意味に使われるようになるいきさつを書いておかないと、バックパッカー論は成り立たない。
 そして、同時に、たとえば『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』(トム・シュルツ、青土社)も読んで、できるだけ働かないで生きていきたいと思っている人たちの系譜を頭に入れておかないといけない。そういうこまかな作業をしていないので、小田実を「バックパッカーの典型的なイメージといえる人」としてしまうのだ。
著者が金科玉条のごとく頼りにしているのは、観光や旅行の研究、特にバックパッカー研究で有名なエリック・コーエンの説だ。
 イスラエルの人類学者エリック・コーエンは、一九七二年に、バックパッカーの特徴として、「常道をはずれる」すなわち他の旅行者が行かない場所をあえて旅するフロンティア・スピリットと、「現地の文化に浸る」すなわち現地の日常生活に埋没するという好奇心の二点をあげている。
 この説の出典は、Erik Cohen ” Toward a Sociology of International Tourism” Social Research 39 (1972)だというから、試しに検索してみたら、インターネットで読めることがわかった。
 どうして、そういう面倒なことをして、参考文献を読んでみようとしたかというと、1972年当時の論文で、”backpacker”という語は使っていないはずだと思い、確認したくなったのだ。コーエンが“drifter “という語で説明している話を、大野氏は”backpacker”に置き換えている。大野氏は註でその説明はしているが、ここに問題がある。イスラエル人学者が1972年に発表した論文にある”drifter”を、現在の日本人バックパッカー研究に当てはめることに無理があると思う。コーエンが資料を集めた1970年前後までの時代と現代では、旅する若者の数が圧倒的に違い、交通手段や宿泊施設やガイドブックなど旅行環境がかなり違っている。だから、70年前後までの若い旅行者像をそのまま現代の若い旅行者像に当てはめてはいけない。
 バックパッカーは、一般的な観光地には行かない、現地の文化に浸るというのが二条件ならば、世界各地の安宿街にいて世界遺産を巡る旅行者は、バックパッカーではないことになるし、ビーチや高原リゾートにいる旅行者もバックパッカーではないことになる。
 バックパッカーの基礎知識なしに、旅行者にインタビューをするから、個別の例を紹介しても、「だから、どうした?」ということになる。別の場所で、別の旅行者にインタビューすれば、旅行者像は別の回答になる。カトマンズに住む元バックパッカーのA氏にインタビューした内容はあくまでA氏の物語であって、元バックパッカーと言ってもパリに住むB氏やバンコクに住むC氏やサンフランシスコに住むD氏の物語とは違う。A氏の話だけで、バックパッカー像を一般化できるだろうか。基礎工事なしに家を建ててしまった欠陥住宅が、この本なのだ。
 この本の欠点をもうひとつあげると、貧弱な論拠とわかりにくい理屈だ。観光論といえば、お決まりの「まなざし」(ミシェル・フーコー→ジョン・アーリ)が出てこないのは幸いだが、観光関連の論文では常連のブーアスティンやマッカネルなどを唐突に登場させようとしたのも、悪文になってしまった原因だろう。世界的に有名な学者の名前を出さなくても、自分の言葉で書けることがあるはずだ。学者の名前とその説を出すだけの「ひけらかし」と「はったり」は、もうやめたほうがいい(しかし、そういう文章にしないと指導教授が納得しないという現実があるのだが)。
次に、文章をちょっと引用する。
バックパッカーは、旅に出る動機がどういうものであれ、旅に出れば)、最終的には新たな生き方を見つけて自発的に日本社会へ復帰することをめざす場合が多い。そして、そう決断したバックパッカーの多くは、日本社会への復帰の手段として、旅で獲得した資源活用を試みる。 
 わかりにくい文章だが、バックパッカーの多くは、旅先で「新たな生き方を見つけ」、その経験を日本社会で生かそうとしているという意味だろうが、この論は証明のしようがない。この「多い、多く」も、どれほどの割合を意味しているのか不明だ。バックパッカーは、みなさんそんなに立派でお利口さんなのだろうか。引用した文章には次のような註がついている。「もちろん、すべてのバックパッカーが旅の経験を資源化しているわけではない」。どういうテーマであっても、「バックパッカーのすべてが、○○だ」などと断言できる人はひとりもいないのだから、こんな註をわざわざつける意味がない。本文で処理すればいいのだが、どっちみち証明のしようがない論だ。
この手の、あいまいな論理がいくらでも見られる。大野氏が書いているのは、バックパッカー称賛のエッセイであって、研究書ではない。これは、文芸社の旅行読み物としてなら認められる論法なのだが、学術論文では許されないあいまいさだ。
 ついつい長くなってしまった。以下は、次回に。