1277話 つれづれなるままに本の話 2

 パンの話

 

 

 30冊ほどの本が、机の上にのったままになっている。整理するにしても、行先に空きがなく、空席待ちの状態だ。昔なら机の上に置いたままにしているのは辞書類だったが、今は『世界のパン図鑑』(総監修:大和田聡子、平凡社、2013)が、いわば「座右の書」になっている。カラーのパン図鑑のページを開き、「ああ、うまそうだなあ」などとため息をつくのである。この本を読んでいたから、チェコに行く前から、ゆでて作ったクネドリーキというチェコの代表的なパンを知っていた。ベーグルはゆでてから焼くのだが、クネドリーキは練った小麦粉を20分ほどゆでるだけでできるパンで、そういう作り方をするパンは世界的にも珍しいはずだ。

 私はパンが大好きだ。ひと月でもふた月でもコメなしの生活は平気だし、実際に半年以上コメを食べなかった旅もあるのだが、パンのない食生活は1日でもつらい。インドのチャパティやパラタといった平焼きパンも好物だ。

 私が好きなパンは、固く、重く、茶色いものが多い。白くて、ふわふわで、甘い、例えば「ヤマザキ ダブルソフト」のようなパンは苦手なのだ。大阪人好みの超厚焼きトーストも好みではない。バゲットのように皮が固いパンが好きだし、ライ麦や小麦の全粒粉のパンも好きだが、私が住んでいる地域では、その手のうまいパンはなかなか手に入らない。都心に行かないといけない。

 私好みのパンは、東京で言えば、中央区、港区、そして渋谷区などにはあるが、都心から遠ざかると、だんだん入手困難になる。ウチの近所でもバゲットと称するパンは売っている。皮はちょっと固めだが、中はふかふかで空洞はない。スーパーマーケットで売っているビニール袋入りのバゲットはもちろん失格だが、独立した店舗を構えたパン屋でも、「これがホントにバゲットかい?」と言いたくなるパンを売っている。

 誤解の無いように書いておくが、私は「日本のパン屋はひどい」と言いたいわけではない。私の好みには合わないというだけのことである。私のように色のついたパンが好きな者は、日本では少数派で、多分、東アジアや東南アジアでも少数派だろう。つまり、日常、コメを食べている人たちには、ふかふかもちもちのパンの方が好みに合うのだ。

 日本の食べ物は、柳田国男を引用するまでもなく、よりやわらかく、より甘く、より白く(あるいは色鮮やかに)という歴史である。戦後の食生活だけを振り返っても、固い食べ物はほとんど姿を消した。身欠きニシンも棒タラも、スルメもいり豆も固かった。飯もいまのようにふかふかべっとりはしていなかった。

 だから、パンも同じように、ふかふかの大甘になっていったのだ。食パンに、砂糖、牛乳、タマゴを入れて、シフォンケーキのようなほわほわの食パンにする。砂糖を入れるのは甘みを出すということのほか、水分を保ってほかほかさを持続させるためだ。つきたての餅でも翌日には固くなるが、砂糖を入れると大福のように柔らかさが持続するというのと同じ理屈だ。ナンを食べない南インドの料理店でも、ナンを出さないと日本人客は満足しないのだ。ふかふかのナンが、日本人の好みに合う。そして、ナンも当然砂糖を入れてふかふかに焼く。

 ほかほかパンが話題になって行列ができると、SNSで話題になり、マスコミが騒いでさらに行列ができて、売れる。客の好みに合わせたパンを作っているのだから、それでいいのであるが、残念ながら私の好みには合わない。食パンは安いものに限る。安い食パンはパサパサだから、私の好みに近くなる。食パンは、高くなればなるほど、ふかふかふわふわになってしまう。

 都心に出かけて、高いカネを払えば、私好みのパンは買える。そういうパン屋で、値段をいっさい気にしないで好きなパンを買うといくらかかるか考えてみると、それほどの金額ではない。たぶん、ひと月4000円もあれば充分だ。3000円でも間に合うかもしれない。朝食に、バナナのほかサラダを大量に食べるようになった今、6枚切り食パンを3分の2食べるくらい食べればいい。1枚食べると、「食べすぎたか」という気がする。

 パンが好きだから、こんな本も目に入った。『なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか』(阿古真理、NHK出版新書、2016)をアマゾンで見かけたが、読む気はない。誰が世界一に決めたんだいという疑問があって、だから多分読む必要のない本だろうと判断したのである。